ピル治験女性バラバラ殺人事件 -3-

これは「ピル治験女性バラバラ殺人事件」に関する記事の【パート3です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

ピル治験女性バラバラ殺人事件 -1-

ピル治験女性バラバラ殺人事件 -2-


 

【ピル治験ツアー】和子さんの足取り

1986年5月20日―、
和子さんを含むツアー参加者総勢5名は、成田空港を出発。
そして西ドイツに到着後、6月9日から9月12日までフライブルク市内にあるホテルに被験者として滞在した。

治験の全日程が終了し、自由の身となった和子さんは他の参加者4人と現地で別れた。
(他の治験参加者たちはヨーロッパ各国を回り、10月中に全員が帰国している)

一方、単身ヨーロッパ旅行に出た和子さんの足取りは―、

917 イタリア (ローマ、ヴェネツィア)
26 オランダ (アムステルダム)
27 デンマーク (コペンハーゲン)
29 スウェーデン (ストックホルム)

30 ノルウェー (オスロ)
103 スウェーデン (ストックホルム)
4 フィンランド (ヘルシンキ)

ヘルシンキで和子さんは、「これからコペンハーゲン経由で南ヨーロッパを旅行する」と記した手紙を実家に送っている。
そしてこれを最期に、ヘルシンキから先の足取りが途絶えた。

現地警察によれば―、
和子さんは10月8日~15日の間に殺害されたとされている。
血液中からは毒物や薬物反応はみられず、死因は窒息であるとみられている。尚、(性的)暴行を受けた形跡なかった

 

【和子さんの足取りから窺えること】
西ドイツへの渡航費もさることながら、ヨーロッパ各国を巡るほどのお金を持ち合わせていなかった治験ツアー参加前の和子さん―、
このことを考えると、治験参加の報酬は治験終了後すぐに支払われたものと推察できる。
また、和子さんの遺体がコペンハーゲンで発見されたことを考えると―、
実家に宛てた手紙の内容どおり、和子さんは手紙投函後にヘルシンキを発ち、少なくともコペンハーゲンには到達したと思われる。

 

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当時の時代背景と『事件の大きな謎』

現代では避妊手段のひとつとして身近な存在であるピル(経口避妊薬)―、
ところが事件が起きた86年当時の日本国内では、ピルを手に入れることはできなかった。というのも、当時はピルの国内販売承認を得た製薬会社が存在していなかったからである。
(そうした情勢にあった86年当時の日本において、業界では”数年以内に日本国内でピルが販売されるであろう”という見方が強まっていた。

そのため、国内外の製薬会社がその開発競争にしのぎを削っていた時期であった)

【日本国内初のピル】

日本国内で初めてピルが認可を受けて販売されたのは、1999年。
86年当時、”数年以内”とみられていたピルの国内販売であったが、結果としてそれは約13年後となった。
日本のこの”1999年解禁”は、欧米より実に約40年遅れ。先進国日本もこの分野においては後進国であることは否定できない。

 

和子さんが参加したピル治験ツアー。これを企画した西ドイツのG社も例に漏れず、まだ”更地”であった日本に目をつけ、日本国内販売に参入するためにその競争に加わっていた。
“日本国内販売”―、となれば当然のことながら日本人女性の臨床データが必要となる。それ故にG社は渡航費や高額の報酬というように大枚をはたいて、わざわざ日本人女性5人を日本から西ドイツへと呼び寄せたというわけである。

こうしてみると、G社のこの動向はごく自然なものに映る。ところが、ここでひとつの不可解な点が浮き彫りになる。

厚生省(現・厚生労働省)によれば―、

「輸入用の新薬製造承認申請の審査基準においては、日本国内で日本人女性を対象にした治験データが必要であり、日本国外での日本人女性の治験データは審査対象とならない」

ということである。
つまり、当時西ドイツに本社を置いていたG社には、わざわざツアーを組んで日本人女性を自国に招く必要はなく、それどころか日本国内で治験を行わなければならなかったのである。

さらに、このG社の不可解な動きをみた厚生省は以下のようにコメントしている。

「海外の製薬会社が治験を行う場合は、国内の大手製薬会社や大学に依頼するのが通常であり、日本人女性をわざわざ海外に連れ出すといった話など、いまだかつて聞いたことがない」

そのほか、業界関係者などは訝しげに口を揃え、以下のようにコメントしている。

「なぜ多額の費用をかけてまで治験ツアーを行うのか理解できない」

 

このように、G社の動きに対して懐疑的な見方をする者が多い中、G社は以下のようにコメントしている。

「今回の事件以前から、日本の製薬会社の依頼を受けて頻繁に新薬の治験を行っていた」

これを裏付けるように、本事件が起きる以前の1984年頃から―、
日本国内の一部の治験受託会社が、口コミで大学生などの若者を対象に治験ツアーの参加を募っていたという話が存在している。

(しかし、”口コミ”というのが引っかかる。「広告を打たない」、これを裏返せば「表立たせることができない」と言うこともできる。だとすれば、それはなぜなのか。
また、この”一部の治験受託会社”には、この度G社の治験依頼を受けたバイオデザインが含まれている可能性が非常に高い)

 

こうしてG社に対する懐疑的な見方が強まり、世の中ではさまざまな憶測が生まれた。
その中でも―、

“当時日本国内ではピルを対象にした治験が認可されていなかったために、その規制を逃れるためにバイオデザインに治験ツアーの企画を依頼、そして自国西ドイツで治験を実施した”

との好意的な見方が最も有力である。

とはいうものの、G社の不可解な動き―、
これに対する真相は分かっていない。


完結編となる【パート4】へ。