坂本堤弁護士一家殺害事件 -1-

これはオウム真理教が起こした一連の事件に関する記事です。本記事では【第3のオウム事件】について言及しています。
本編単体でもお読みいただけますが「オウム事件シリーズ」となっているため、第1の事件から順にお読みいただいた方が事件関連の出来事や語句、人物など、より理解が深まります。

【第1のオウム事件】オウム真理教在家信者死亡事件

【第2のオウム事件】オウム真理教男性信者殺害事件


 

“坂本をポアするんだよ、ポア”

 

『坂本堤弁護士一家殺害事件』の概要

事件が起きたのは、1989年(平成元年)11月4日

オウム真理教問題に取り組み、とりわけ信者の脱会(救出)に尽力していた坂本 堤弁護士。こうした救済活動もさることながら、自身は断固とした「反オウム」の姿勢を貫き、メディアでの教団に対する批判的なコメントを怖じることなく発信。これにより当時、政界進出を目論んでいた教団との軋轢が生じ、目の敵にされた。
その結果、坂本 堤弁護士一家がオウム真理教幹部6人によって殺害された事件である。

 

本事件の被害者

殺害された坂本さん一家

 


坂本 堤 (さかもと つつみ)


1956年4月8日生まれ。事件当時33歳。神奈川県横須賀市出身の弁護士。

【来歴】

  • 横須賀市立公郷(くごう)小学校
  • 横須賀市立池上中学校 (2年生時に「横須賀市立公郷中学校」へ転校)
  • 神奈川県立横須賀高等学校
  • 東京大学法学部 (一浪)

大学卒業後は、法律事務所で事務職員として勤務。これを経て、1984年(27歳)に司法試験に合格。その後、1987年より横浜法律事務所で弁護士業務に携わるようになる。

そして、オウム真理教の黎明期ともいえる1989年―、
ジャーナリストの江川 紹子を介し、オウム真理教に出家した信者の親たちの”救出依頼”を受けるようになる。
こうして、オウムに引き込まれた信者たちを引き出すため奔走していた中、「オウム真理教被害者の会」を設立した。

坂本さんはそれまでのボランティア活動を通じて、経済的に困窮している人や障害を抱える人といった社会的弱者―、そうした人たちに寄り添う生き方がしたいと弁護士を志した。
人にやさしく、正義感の強い人であった。

 

妻・都子さん


1960年2月24日生まれ。事件当時29歳。茨城県那珂郡大宮町(現・常陸大宮市)出身。

坂本さんとは、ボランティア活動へ参加した時に出会う。
高校生の頃にはボランティア・サークルに所属。そこでリーダー的存在であった都子さんもまた心優しく、弱者に手を差し伸べたいという志の高い人であった。そのため、坂本さんと都子さんが夫婦となるのはごく自然なことであったといえる。

結婚当初、まだ司法試験に合格していなかった坂本さん。そんな夫を支えるため、都子さんは家計を支えるために懸命に働いていた。
勤務先は東京・銀座の法律事務所。所長は宇都宮 健児。当時は消費者金融の高金利や多重債務、いき過ぎた取り立てが深刻な問題となっていた時代で、都子さんは事務所の弁護士や訪れる相談者を温かく支えていた。

 

長男・龍彦ちゃん


1988年8月25日生まれ。事件当時1歳。
同い年の有名人には、メジャーリーガーの田中 将大選手。芸能界では女優の新垣 結衣さん、吉高 由里子さんなどがいる。

 

ここで知っておきたいオウム真理教のこと

オウムの階級

オウム真理教には尊師・神聖法皇(麻原 彰晃)を頂点とするピラミッド型の階級制度(ステージ)が存在していた。これはオウム初期から末期に向かうにつれて細分化されていく。
ここでは本事件当時(90年)のステージを紹介する。上記ほど上位ステージ。(同ステージ内では、左から右へいくにつれ上位となる)

 

1990年1月

  • 尊師
  • 大師 (正師 ⇒ 正悟師 ⇒ 正大師 ⇒ 大報師 ⇒ 大法師 ⇒ 天人師)
  • スワミ (行者 ⇒ 大行者 ⇒ 小師 ⇒ 師)
  • シッシャ (小学者 ⇒ 大学者)

 

1990年7月

  • 尊師
  • 正大師
  • 正悟師
  • スワミ
  • シャモン (出家修行者)

 

ホーリーネーム

ある一定のステージに到達すると、教祖である麻原本人から授与される。
どのホーリーネームもどこか奇々怪々な響きを持つが、これはサンスクリット語、チベット語、パーリ語から成り、仏教経典に登場する高僧やヒンドゥー教の神々の名前などを組み合わせて作られる。
このホーリーネームは、後に入信した信者ほど長くなる傾向があった。これは麻原の志向の変化によるものと思われる。

 

created by Rinker
¥1,250 (2024/04/16 14:25:37時点 Amazon調べ-詳細)

本事件の犯人たち

首謀者

本事件における首謀者は、言わずもがなオウム真理教の教祖・麻原 彰晃である。

教団教祖であり事件の首謀者

 

 

実行犯 (教団幹部たち)

村井 秀夫 (むらい ひでお) -坂本堤弁護士一家殺害事件-


1958年12月5日生まれ。大阪府出身。本事件当時30歳。ホーリーネームは「マンジュシュリー・ミトラ」。最終ステージは「正大師」。

大阪大学の理学部物理学科にトップの成績で入学。その後、大阪大学大学院へ進み、理学研究科修士課程修了、理学修士となる。
大阪大学は国立の難関大学であるが、ここへの進学を選んだ理由は「家から近く、歩いて通えるから」というものであった。成績もさることながら、その発言からも地頭の良さを窺わせる。

1987年6月、妻と共に出家。
出家後は、その経歴と実力から教団の科学者代表として重宝される。やがて教団が省庁制を導入すると、兵器開発を担う「科学技術省」大臣に就任した。

麻原からの信頼は厚く、麻原の三女・松本 麗華の良き遊び相手であった。
(そのホーリーネームから、三女には「まんじゅう」と呼ばれていた)
そのほか麻原からの信頼を象徴するエピソードとして、教団内には多くの医師がいたにも拘らず、医療資格を持たない村井が麻原の主治医を務めていたというものもある。
このように、村井は麻原の右腕ともいえる存在であり、教団では教祖・麻原に次ぐ”ナンバー2″のポストに就いていた。

ちなみに、一緒に出家した妻とは教団内でのステージの違いを理由に離婚している。

 

 

岡崎 一明 (おかさき かずあき) -坂本堤弁護士一家殺害事件-


1960年10月8日生まれ。山口県出身。本事件当時29歳。ホーリーネームは「マハー・アングリマーラ」。
(元々は「アングリマーラ」であったが、後に”マハー”が付けられた。このホーリーネーム付け足しには格上げのニュアンスがあったと思われる。このことから岡崎は麻原から認められていたことが窺える)

最終ステージは「大師」。一般に「おかざき」と呼ばれるが、正しくは『おかさき』である。

1986年9月に上京し、25歳で出家。
出家後は営業マンだった経験を買われ、教団の書籍販売を担うことに。やがて岡崎は「オウム出版」の営業責任者となる。
オウム真理教の黎明期であった86年当時において、書籍の出版はオウム真理教の布教活動の中でも大きな柱であった。それ故に、この営業責任者というポストは教団内においてもとりわけ重要であった。
岡崎は麻原の期待に応えるべく精力的に書店回りに明け暮れ、麻原の著書『生死を超える』を取次ルートに乗せるにまで至った。さらには、これに続いて刊行された『超能力秘密の開発法』のヒットにも貢献。これにより、後の教団幹部となる人材獲得に寄与している。
こうした明確な実績を上げ、岡崎は教祖・麻原の信頼を勝ち取っていった。

本事件におけるキーパーソン。ともすれば本事件のみならず、教団存続を揺るがしたともいえる人物。

 

 

早川 紀代秀 (はやかわ きよひで) -坂本堤弁護士一家殺害事件-


 1949年7月14日生まれ。兵庫県出身。本事件当時40歳。本事件における実行犯の中では最年長。ホーリーネームは「ティローパ」。最終ステージは「正悟師」。

大学在学中に国内で学生運動が起きる。一説には、早川自身も学生運動に参加しており、公安にマークされていたともいわれているが、本人はこれを否定している。
この頃は「宗教は胡散臭い」と感じており、宗教に対しては否定的な感情を抱いていた。
(尚、幼少期はカトリック系幼稚園に通っていた)
ところがその後、麻原の著書『超能力秘密の開発法』に感化され、1986年3月にオウム真理教の前身である「オウム神仙の会」に電話をかけた。しかし、このとき電話対応したスタッフの態度に腹を立ててその熱を失いかけるが、その直後に麻原本人から電話がかかってくる。そしてその会話の中で心を打たれ、翌4月に入信(入会)。このときの会員数は60人程度であり、早川はオウムのごく初期からの信者であるといえる。
(オウム真理教最盛期の国内信者数はおよそ15,000人。出家信者は1,400人ほど)

1987年11月に出家。このとき全財産であった1,000万円弱を布施した。その半年後には、妻も出家。
出家後に早川は、建設会社で緑地設計や土木設計に携わっていた経験や知識を活かして、建設省大臣に就任。教団施設の建設や用地買収を担当した。

本事件当時40歳ということで、青年層が多くを占めていた教団幹部の中では数少ない中年であった。ちなみに、教祖の麻原よりも年上である。

 

 

新実 智光 (にいみ ともみつ) -坂本堤弁護士一家殺害事件-


1964年3月9日生まれ。愛知県出身。本事件当時25歳。ホーリーネームは「ミラレパ」。最終ステージは「正大師」。

中学時代は野口 英世に憧れて東京大学の医学部から医者になる夢を描いていた。尚、その風貌から「空海」というあだ名を付けられ、いじめられていた悲しい過去を持つ。
(このエピソードから、新実は少年時代からスキンヘッドに近いヘアスタイルであったことが窺える)

中学時代の夢とは異なり、1982年に愛知学院大学の法学部に入学し、公認会計士を目指す。入学後は真面目に学生生活を送っていた。
1986年3月の大学卒業後、食品会社の「マルサンアイ」に入社。”物怖じしない性格は営業向き”として健康食品の営業を任される。
(新実は大学の紹介を受けずにこの会社に自ら訪問し、面接を取り付け、内定を得ている)
営業成績は優秀、上司にも可愛がられ、その社会人生活は順風満帆であった。ところが、兼ねてより没入していたヨガの道に進むためにわずか半年でこれを退職。
尚、新実はこの年に、「オウム神仙の会」が初めて開いたセミナーに出席している。そのため、教団幹部の中では、岡崎 一明や早川 紀代秀らと並ぶ最古参といえる。
(新実は後に教団が宗教法人となった際、9人いた「設立時責任役員」の中の1人となる)
さらに同年、教団が出家制度を導入したことを知ると、新実はすぐに出家。教団では5番目の出家信者となった。
教団では自治省大臣を務め、教団の警備や他信者の懲罰、スパイの摘発など、”教団内警察”のトップとして、組織内秩序の維持に努めていた。

ちなみに、出家前である大学在学中には、「ミスタードーナツ」や「吉野家」でアルバイトをしていた。

 

 

中川 智正 (なかがわ ともまさ) -坂本堤弁護士一家殺害事件-


1962年10月25日生まれ。岡山県出身。事件当時27歳。ホーリーネームは「ボーディサットヴァ・ヴァジラティッサ」。最終ステージは「正悟師」。

手塚 治虫の作品「ブッダ」の影響で医師を目指す。一浪を経て、1982年に京都府立医科大学医学部医学科に進学。

オウムとの最初の出会いは1986年11月、偶然見かけた麻原の著書『超能力秘密の開発法』を読んだこと。しかしながら、このときは教団に対して大した興味を持つことはなく、本も途中で読むのを止めている。
ところがその後、医師国家試験に無事合格した中川は、就職までの空いた期間に興味本位や暇つぶしの感覚で麻原のヨガ道場を訪ねる。結果として、これが中川の人生のターニングポイントとなった。その後、早川らが企画したオウム真理教の音楽コンサート公演を観に行ったりなどしているうちに、やがて道場に通い詰めるように。
1988年2月24日、入信。1989年8月31日、看護師の恋人と共に出家。

出家後は、麻原の主治医の一人として健康管理などをする。法皇内庁の長官を務め、麻原の身の回りの世話を担当した。

ちなみに、漫才コンビ「浅草キッド」の水道橋博士とは、中学生時代の同級生である。この時代の友人らから中川は”ケツ”というあだ名で呼ばれていた。
(この”ケツ”というあだ名は、中川の丸い身体が由来)

 

 

端本 悟 (はしもと さとる) -坂本堤弁護士一家殺害事件-


1967年3月23日生まれ。東京都出身。本事件当時22歳。ホーリーネームは「ガフヴァ・ラティーリヤ」。最終ステージは「愛師長」。
(「愛師長」はオウム末期の1994年にできたステージの中のひとつ。階級としては中位くらい)

一浪して早稲田大学法学部に入学。大学では空手サークルの部長、それだけには留まらず空手道場にも通うなど「無骨者」そして「肉体派」であり、男気ある人物であった。
大学在学中である1988年の春、オウム真理教に入信した高校時代の友人を脱会させるために、話し合いを重ねて説得を続けていた端本。こうした中、この友人の様子を窺うために、オウムのセミナーに参加。このとき端本はセミナーの参加者たちをみて、「オウムは弱虫の集まり」と否定的であった。
ところが、その後も参加したセミナーの中で、麻原の説く教えに感化されてしまう。なにより決定打となったのは、教団側の人間としてセミナーの会場にいた新実のキャラクターであった。
(教団に懐疑的であった端本はこのとき高圧的な態度で質問をしたが、新実にひょうひょうと「入信しましょう」と翻された。その新実の態度に端本は、「すごい悟りの人なのでは」と思ったという)
まさに「ミイラ取りがミイラになる」形で、この年の7月に端本は入信。さらには、一浪して入学した大学を中退し、12月31日に両親の猛反対を押し切って出家。

出家後は、教団の広島支部で出版物の営業に従事。また、教団の選挙活動時には早川の配下に置かれ、雑用に当たった。
また、硬派なそのイメージとは裏腹に、食や性に関する戒律を破る問題児として、教団内では「フリーマン(自由人)」と呼ばれていた。しかし無骨者・肉体派のイメージには裏切らず、
教団内で行われた「武道大会」では、元ボクサーなどの信者などを蹴散らし優勝。
その腕っぷしの強さを買われ、麻原を警護する警備班(「自治省」の前身)に配属される。これにより、それまでの雑魚寝生活から、上役である新実の個室での同居生活を許されるようになった。

 

事件の発端

オウム真理教がその勢力を拡大しはじめていた1989年―、
「横浜法律事務所」所属の弁護士であった坂本さんは、ジャーナリスト・江川 紹子からの紹介で、出家信者の親たちの相談に乗るようになる。
同年5月教団の反社会性に対する糾弾の力を強めるために、「オウム真理教被害者の会」を組織した。

しかし―、
この会の旗揚げこそが、後に起きる悲劇の引き金となる。というのも、教団はこの翌年の1990年に行われる第39回衆議院議員選挙に、教祖・麻原率いる「真理党」からの出馬を決めていた。そうした中での被害者の会設立は、教団にとってみればネガティブキャンペーンであったからである。
また、教団はこの年の8月25日、宗教法人として認可されたばかりであった。第一の目標であった「宗教法人成り」を達成し、次なる目標は政界進出。そんな勢いづいた教団の邪魔をする者として、坂本さんは麻原に目を付けられることとなった。

こうした教団内の動きを露知らず、同年9月には週刊誌『サンデー毎日』で「オウム真理教の狂気」の名を冠した特集がスタート。こうして日本中でオウム批判が高まる中、坂本さんは同誌の取材を受けるようになる。
これを受けて、坂本さんもさることながら、教団に対する批判的な記事を書く『サンデー毎日』が目下の敵としてロックオンされた。

 

あるとき教団は同誌の出版を差し止めるべく、出版元である「毎日新聞社」本社の爆破計画を企てる。
これは2トントラックに爆弾を積載し、輪転印刷機があると思われるパレスサイドビルディング(毎日新聞社本社ビル)の地下階に突っ込むというもの。これが上手くいけば、同社の輪転印刷機を破壊することができるほか、人的被害も期待できる。となれば、『サンデー毎日』の出版を停止できることはまず間違いなかった。

パレスサイドビルディング (東京都千代田区)

 

問題の爆弾であるが、これは”教団の科学者”として幹部に君臨していた村井 秀夫が作ることで作戦が練られた。
ところが、トラックがパレスサイドビルディングの地下に入れないこと、そしてそもそも『サンデー毎日』がこのビルの地下で印刷されているかが確かでないこと、これらの理由によりこの計画は白紙となった。
そこでこの代替案として、ビルに直接爆弾を仕掛ける計画も持ち上がったが、早川 紀代秀が同社を下見に行った際に教団のビラを置いてきてしまう。その状況でこの爆破計画を実行すると、ビラが犯行の証拠となってしまうため、この計画も断念せざるを得なくなった。

この「毎日新聞社襲撃計画」の中止が、後の悲劇となる坂本さん一家殺害へと繋がっていく—。


そしていよいよ坂本さん一家へ魔の手が伸びる―。【パート2】へ。

 

【宇都宮 健児】
弁護士であり、政治活動家。
過去には日本弁護士連合会会長を務めるほか、全国ヤミ金融対策会議代表幹事やオウム真理教犯罪被害者支援機構理事長、年越し派遣村名誉村長など、各方面で弱者の救済活動に尽力。
政治活動家としては、2014年東京都知事選挙に出馬。このとき、多くの著名人が宇都宮氏を支持した。その中には例えば、音楽家・市民活動家の坂本 龍一や、シンガーソングライター・井上 陽水の妻であり自身も歌手の石川 セリなどがいる。

尚、「2020年東京オリンピック」に対してもさまざまな主張をしている。


【真理党】

オウムの選挙パレード

オウム真理教の教祖・麻原 彰晃が党首となり結成された宗教政党。
1989年(平成元年)8月16日に東京都選挙管理委員会に政治団体設立を届出。麻原をはじめ教団幹部ら25名を擁立し、確認団体となるも全員落選。

公約は―、

  • 『消費税廃止』
    同年4月1日に導入されたばかりであった3%の消費税を廃止
    (政府が癒着をなくしさえすれば、そもそも消費税など必要ない)
  • 『医療改革』
    患者本位の医療と新しい医学の創造
    (これは誰にとっても切実な問題である。早急に実施する)
  • 『教育改革』
    明るい学校と知能教育の推進
    (子ども達の健やかな成長のために)
  • 『福祉推進』
    豊かで充実した長寿社会を目指す
    (安らぎに満ちた毎日を)
  • 『国民投票制度導入の構想』
    真の国民国家であり続けるために
    (今の政治は不満だらけ。国民投票制度を導入すれば、消費税強行採決のような事態も防げるし、汚職議員も私達の手で解職できる。金権・腐敗政治の温床を一掃できる)

ちなみに東京都第4区で出馬した教祖・麻原の得票数は僅か1783。箸にも棒にも掛からぬほどの大惨敗であった。
尚、この結果を目の当たりにした麻原は、「教団の代表を辞める」などと言って心底落ち込み、弱気になっていた。

 

created by Rinker
¥737 (2024/04/16 18:22:41時点 Amazon調べ-詳細)