坂本堤弁護士一家殺害事件 -3-

これは「坂本堤弁護士一家殺害事件」に関する記事の【パート3です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

坂本堤弁護士一家殺害事件 -1-

坂本堤弁護士一家殺害事件 -2-


 

坂本さん一家殺害へ

1989年11月3日午前9時頃―、
坂本さん殺害実行のために、その自宅のある神奈川県横浜市へ向かった殺害チーム。

チームの予定は―、
坂本さんが通勤で利用するJR「洋光台」駅付近で待ち伏せし、やってきた坂本さんを車内に押し込む。そして塩化カリウムを注射して殺害。そのまま遺体ごと運び去るつもりであった。

JR「洋光台」駅

 

ところが駅に到着後、いくら待っても坂本さんは駅から現れない。
それもそのはずで、この日は祝日(文化の日)であった。このことは中川を除く皆が忘れており、中川がふと「今日は祝日です」と他の者たちに指摘すると、新実は「賢い!」と中川を褒めた。
そして―、チームは予定変更。駅から坂本さんの自宅へと向かった。

坂本さん一家が住んでいたアパート

 

22時、チームは坂本さん一家の住むアパートに到着。
そこでまずは岡崎が一人で偵察に出て、坂本さん宅の玄関ドア前まで行く。ここで岡崎はドアポストに指を入れ、室内に灯りが付いているのを確認。さらに、そっとドアノブを回して引いてみるとこれが開き、ドアに鍵がかかっていないことを知る。
その報告を受けた早川が、「いま自分らが坂本さん宅前にいること」「坂本さん一家が在宅していること」「玄関ドアに鍵がかかっていないこと」、これらを電話で麻原に伝えた。
(冷静に考えれば、部屋の明かりが点いているからといってそこに坂本さんがいるとは限らない。在宅しているのが妻・都子さんと長男・龍彦ちゃんだけの可能性もある。とはいえ、この日が休日ということから考えても、”一家団欒”、つまりそこに坂本さんがいると捉えるのが自然である)

状況をみれば、チームとすればこれは絶好の機会であったが、そこにはひとつ問題があった。それは、都子さんと龍彦ちゃんの存在である。当初の予定では、駅前で坂本さんを拉致して殺害することになっていたので、坂本さんが家族と一緒にいる場面での殺害実行を想定していなかった。
これを受け、
麻原との電話の中で、早川は都子さんと龍彦ちゃんをどうするか相談。すると麻原は、「それならば、入ればいいじゃないか。もう一緒にやるしか仕方ないだろう」と言って、”一家殺害”の命令をした。
(この会話の中で、早川らは2人のことを「付属物」と呼んでいた)

 

麻原から一家殺害の命令を受けた現場の6人。しかし、彼らはそれをすぐに実行することはしなかった。
麻原の命令後、ひとまず早川と新実がブルーバードで再び洋光台駅へ戻り、最終電車まで駅前で坂本さんが現れるのを待った。
(坂本さんが利用する電車の最終は、洋光台駅到着時刻が午前0時から1時の間であったと思われる)

早川と新実の2人が駅前にいるその間、残りの4人は坂本さん宅近くに停めたビッグホーン内で待機した。
(麻原の”突入命令”に背くチームのこの行動から彼らには、”できるならば、坂本だけを殺害したい”、”妻と子どもを巻き込みたくない”という一握の良心があったことが窺える)

駅前で最終電車まで待った早川と新実。結局、駅から坂本さんが現れることはなく、これによりチームは坂本さんが自宅にいることを確信した。

 

そして日付が変わった1989年11月4日午前3時頃―、一家殺害のために6人は坂本さん宅に侵入。
(このときも坂本さん宅の玄関ドアは施錠されていなかった)

就寝していた坂本さんらは6人の侵入にすぐに気付き、激しく抵抗。これにより、殺害のための塩化カリウムを注射する役割であった中川は、なかなか注射を打つことができなかった。
そして、まさにこうした状況のためにチームに加えられていた肉体派・端本が、坂本さんに馬乗りになり、顔面を6、7回殴る。このとき坂本さんは、「金が目的か?金ならやる」と言ったが、その言葉はまるで無意味であった。
それからうつ伏せの体勢で端本に馬乗りにされた坂本さんは、岡崎に首を、早川に両脚を押さえつけられる。そうして身動きの取れなくなった坂本さんは、中川によって尻に塩化カリウム入りの注射を打たれてしまう。ところが注射の針が血管に入っておらず、それが筋肉注射であったためにその効果はなかった。
その後、中川は注射を3
回ほどやり直したが上手くできず、ついに坂本さんは絞殺された。
(このとき注射針が曲がっていたことから、坂本さんは最期まで激しく抵抗していたことが窺える)

一方、都子さんは新実に馬乗りにされていた。そうした身動きの取れない状態で端本に腹を蹴られたり、かかと落としをされた後、中川から塩化カリウムを注射された。さらに村井、早川、中川に首を絞められるが、村井の指を噛んだりと最期まで抵抗をみせた。
しかし必死の抵抗も虚しく、「子どもだけは」との言葉を遺して絶命。直接の死因は首絞めによる窒息であった。

そして―、
抵抗もできない乳児の龍彦ちゃん(1歳)は、物音や怒号で泣き出したため、中川と新実によって鼻と口を塞がれて窒息死した。
(一説には、顔や腹を殴られたともいわれているが、筆者はこれを否定する。その理由は、チームが犯行前にできる限り都子さんと龍彦ちゃん殺害を回避しようと試みていたことから)

 

殺害された3人の遺体は、ビッグホーンに乗せられて教団の拠点である上九一色村(山梨県)へ運ばれた。
その後、3人の遺体はブルーバード、ビッグホーン、マツダ・ボンゴにそれぞれ乗せられ―、
坂本さんは新潟県の西頚城郡名立町(にしくびきぐん なだちまち)の山中に、都子さんは富山県魚津市の林道(別又僧ヶ岳線)脇に、龍彦ちゃんは長野県大町市(おおまちし)の日向山の山中に、いずれも裸の状態で埋められた。
尚、万が一のこと(遺体発見)を考え、このとき村井は遺体の歯形から身元が分からぬように歯を砕くことを提案。そこで村井自身が坂本さんの歯(顔面)をツルハシで叩きつけた。またそれだけに留まらず、岡崎や新実と共にツルハシや石で坂本さんの顔を潰そうともしていた。このように、その遺体処理の様子は乱暴、非道そのものであった。
また特筆すべきは、このとき”景気づけに”と、遺体遺棄先である新潟で早川がベニズワイガニを買い、遺体遺棄前に皆でこれを食べていること。そして、坂本さんの遺体はその殻と一緒にゴミ同然で埋められたという一幕である。


本事件のその後の動きについては、次なる【パート4】にて。

 

【坂本さん宅玄関ドアの無施錠について】
殺害チームが坂本さん宅に侵入したとき、玄関ドアは無施錠であった。このとき深夜3時頃である。それもさることながら、当時の坂本さんはオウム問題で教団から目の敵にされていたわけである。当然これは坂本さん自身も分かっていたはず。
果たしてこうした緊迫した状況の中、妻と幼い息子がいる自宅を無施錠で就寝するだろうか。筆者はこれが不可解でならない。
実際、後にこのことが世間で疑問視され、”坂本さんのアパート到着後、一人で偵察しに行った岡崎がこっそりと鍵を開けたのでは”という憶測が生まれた。


【坂本さん一家殺害実行時の村井と早川について】
2人はこのとき手袋を着用していなかった。そのため、殺害現場に指紋を残してきた可能性が極めて高かった。2人には過去に犯罪歴がなかったので、その指紋データが警察のデータベースにはなかったが、後に事件の関与が疑われて指紋の提供を求められた場合、現場に残してきた指紋が決定的証拠になってしまう。
こうした懸念から、一家殺害後に教団へ戻った2人は麻原に”指紋消去”を命じられ、熱したフライパンに手を押し付けて指紋を消した。(一説には、豚の皮を移植したとも)
ところが結局、指紋はその後に再生している。


【別又僧ヶ岳線】
べつまたそうがだけせん
富山県魚津市と黒部市の宇奈月温泉を結ぶ林道。

 

コラム【坂本弁護士一家の住んでいたアパート】

 

 

坂本さん一家が住んでいたアパート


神奈川県横浜市磯子区洋光台3-35-7 サンコーポ萩原C棟 201号室


【築年】
1988年頃
(尚、事件当時はA~Cの3棟のみであったが、1992年4月にD棟が新たに建てられた)

【構造】
軽量鉄骨

【階建】
2階建て

【アクセス】
IR京浜東北・根岸線「洋光台」駅 徒歩9分

【間取り】
3DK

 

事件直後 坂本さん宅内の様子

坂本さん宅の間取り (室内の様子)

 

坂本さんの住んでいたアパートは事件当時、新築であった。とはいえ、80年代という時代のせいか、壁や床板が薄いといった建材の問題か、隣や階上・階下の生活音がよく聞こえていた。
ちなみに、事件当日の1989年11月3日*の21時頃、同じ棟の住人が坂本さん宅浴室の水音を聞いている。
*正確には、事件当日とは日付の変わった11月4日

殺害チーム突入時、無施錠であった坂本さん宅の玄関ドア (室内側)

 

居間のテーブルには急須。そして向かい合う形で夫婦の湯呑みが2つ置かれたまま。龍彦ちゃんを寝かせた後の、夫婦の時間がそのまま残されていた。
2人の湯呑みの間、テーブル中央には龍彦ちゃんのビスケットも。その小さなテーブルは、まるで家族を象徴しているようだ。

察するところ、テーブルの傍らの座椅子は坂本さん用であり、そこが彼の定位置であったのだろう。最期の晩、夫婦はどんな会話を交わしていたのだろうか。

平和で優しい日常―、
そのわずか数時間後に、2人は殺害される。

 

流し台の中の洗い桶には洗われていない食器が積まれていたほか、三角コーナー内には食べ残しなどの生ごみが入ったままであった。
炊飯器は「保温」、中にはご飯が入っていた。休日明けとなる翌日(11月4日)に、仕事へ行く坂本さんに持たせる弁当用であったのだろうか。

 

一家殺害の現場となった寝室。
殺害後、現場からは殺害チームによって3人の遺体が運び出されたが、事件発生時に3人が使っていた布団一式(敷布団、掛布団)
もなくなっていた。
このことから、遺体は敷布団の上に寝かされ、掛布団をかけられた状態で運び出されたと推察できる。いうなればそれは、”人が布団で眠っているときと同じ形”である。

遺体運び出し時の様子を筆者がそう考える理由は―、
遺体は重い、しかし敷布団を担架のようにして使えば、男性2人で容易く運べる。そこに掛布団をかければ、遺体を隠せる。こうすれば、遺体を運び出す際に、周辺住民からの目撃を避けることができる。
遺体が運び出されたのは朝方であったと思われ、11月となれば外はまだ薄暗かったはずであるが、犯行目撃のリスクを考えれば当然そうするのではないだろうか。

こうして遺体を布団ごと運び去ったチームであるが、そこに”置き土産”を残している。中川が落としたプルシャ(教団のバッヂ)である。それは押し入れの前に、ピンが留め金から外れた状態で転がっていた。

 

寝室には都子さんの鏡台が置かれていたが、この鏡台の後ろには居間とを隔てるふすまがある。
このふすまには強く押し付けられたような傷が残されており、この傷は鏡台のふちの形と一致していた。
このことから筆者は、このふすまの傷は事件以前からあったものではなく、一家殺害時に付いたものであると考える。
一家が襲われたとき、坂本さんと都子さんは激しく抵抗した。そのもみ合いの中での衝突で、この鏡台が動かされてふすまにぶつかったのだろう。

 

また、寝室には鏡台の近くに窓があるが、この窓のすぐ下に血痕が残されていた。これを警察が調べたところ、坂本さんと同じO型の血液であることが分かった。
男性ということ、さらに殺害チームのメインターゲットであった坂本さんは、かなり激しく争ったとみられる。であるならば、このとき出血したとしても何らおかしくはない。
その当時からみても血痕が真新しかったことを考えると、この血痕は事件発生時に坂本さんが残したもので間違いないだろう。

窓を開けて助けを求めようとしたのだろうか

 

寝室の隣の居間にあったテレビ、その上に置かれた時計が落ちていた。このテレビは、寝室とを隔てるふすまの前にあった。このふすまの向こうには例の鏡台がある。
テレビの上の時計はもみ合いの中で落ちたのだろうか。すると、犯行時の室内は壮絶であったと推察できる。
尚、テレビの
後ろには、坂本さんの衣類(ボーダーのポロシャツ、白いズボン、茶色のベスト、オレンジ色のジャージ)が雑然と放り込まれた様子であった。

 

静まり返った郊外の明け方、物音が漏れ伝わりやすい部屋、総勢8人での激しいもみ合い、これらを鑑みれば事件発生時はかなり騒々しかったことは明白である。なにより、襲われた坂本さんと都子さんは大声を出せなかったのか。

 

その犯行劇はまるで、組織ぐるみの暗殺である―。