坂本堤弁護士一家殺害事件 -4-

これは「坂本堤弁護士一家殺害事件」に関する記事の【パート4です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

坂本堤弁護士一家殺害事件 -1-

坂本堤弁護士一家殺害事件 -2-

坂本堤弁護士一家殺害事件 -3-


 

事件後

坂本さん一家殺害時―、
手袋をしていなかった村井と早川が現場に指紋を残してきていた。とはいえ、この時点で逮捕歴のなかった2人は、警察のデータベースに指紋登録がなかったためにそこから足がつくことはなかった。
しかし、ここで中川が大きな証拠を現場に残していた。それは「プルシャ」と呼ばれるオウム真理教のバッヂであった。
(一家殺害時のもみ合いの際に取れたものと思われる)

こうして中川が現場に落としたプルシャにより、事件発覚当初からオウムによる犯行であると強く疑われることとなった―。

 

1989年11月18日 夜


坂本さん失踪事件に関し、教団が記者会見を開く。
ここでの焦点は言うまでもなく、殺害現場に落ちていたプルシャである。
これについて尋ねられた教団側は、以下のように答えた。

「現場のプルシャは、坂本弁護士が被害者の会の会員から預かったもの。それでなければ、犯人が我々に罪を擦り付けるため、故意に置いたものと考えるのが自然」

さらに、

「警察の事情聴取は受けていない」

「要請があれば、捜査に協力する」

このように述べ、あくまで教団は事件とは無関係であることを主張した。

 

11月19日


前夜の会見が影響してか、この日は日曜日であるにも拘わらず、所轄である神奈川県警は教団幹部に事情聴取を申し入れた。
(通常、事情聴取は平日に行われる)
ところが教団側は、「集中修行」の期間中であることを理由にこれを拒否した。
仕方なく警察は事情聴取のために、「集中修業の期間が終わるのを待つ」という方針を固めた。

 

11月21日


集中修行の期間中であり、これに取り組んでいるはずの教団幹部がオランダのアムステルダムへ向け出国。
(しかもこれは11月20日に出発予定の便であったが、エンジントラブルで1日遅れたものであった)
その後、教団幹部が出国したことが明らかになり、これを追求されると教団側は、「ボン(ドイツ)とニューヨークの支部に行くことが以前から決まっていた」と翻した。
当初の説明では、ボンへ行った目的は布教活動とされていたが、後に現地で開かれた会見では、「現地ビルの賃貸契約が切れてしまうので、その更新のために来た」と、その日本出国の理由が変わっていた。
(教団幹部の一人であった岡崎は後に、この出国が警察やマスコミから逃れるためのものであったと述べている)

そしてこの日、弁護士の有志による『坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会』が結成された。
この団体は、後の1995年9月に3人の遺体が発見されるまでの間、全国規模のチラシ配布や広報活動により、事件の風化ひいては事件解決のために尽力した。


11月30日


教団がボンで会見を行う。この会見の中で教団は、「坂本堤弁護士失踪は横浜法律事務所が仕組んだ狂言」であると主張。
(このとき現地で教団に同行していた報道記者によると、現地に赴いた教団の人間たちは”自分らの場所”であるはずのボン支部に行くまでの間、道に迷っていたという。さらに、一行の中にはドイツ語を話せる者がいなかったため途方に暮れていたところ、語学に堪能なひとりの記者が見かねて手を差し伸べた)

ボンで会見を行った幹部らはその後ニューヨークを訪ね、そして帰国。それからテレビの生番組にフル出演するなど、メディアへの露出は積極的であり、世間から疑いの目を向けられている犯罪者たちとは思えぬほどに堂々としていた。
(テレビ出演の中で教団は、「被害者の会の会員が、信者である子どもからプルシャを取り上げ、それを坂本氏の部屋に置いた」として、犯行は何者かの陰謀であることを執拗に主張した)

 

事件の風化

事件発覚後―、
教団の教祖である麻原は、ビートたけしやとんねるずといった人気タレントのバラエティ番組に出演。その中で教団の負のイメージを払拭するほか、番組内の対談では自身の潔白を主張した。
こうした活動の甲斐あって、世間のオウム真理教に対する嫌疑は薄れていく。そしてそれと共に、事件は次第に風化していった―。

 

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岡崎 一明、カルト宗教からの解脱

妻と金と共に逃奔

事件後―、
坂本さん一家殺害の実行犯の一人である岡崎は、「教団の起こした複数の事件に加担させられたこと」「麻原の秘密を知りすぎたこと」などから、”使い捨てにされる”との危機感を抱き、東京都世田谷区にある教団施設内の自室で逃亡を決意。この”逃亡”とは、教団からのことを意味する。
そして1990年2月10日18時頃、実行―。

「教団の大師マニュアル」、「自身のクルタ(教団の衣装)」、「プルシャ」を持って世田谷区の教団施設を出た岡崎は、まずは教団が借り受けていた杉並区南荻窪のアパート(「グリーンクロフトガーデン」)へ赴く。そこで教団の政治資金(現金2億2,000万円と残高8,000万円の普通預金通帳)、実印、重要書類などを持ち去る。
(この頃ちょうど、教団の政党である「真理党」から多くの候補者が出馬しており、選挙活動を活発に行っていた時期であった。かくいう岡崎自身も2月3日に真理党候補として東京11区から出馬していた)

「グリーンクロフトガーデン」
東京都杉並区南荻窪3丁目12-8

 

現金等を持ち出した岡崎は、次に中野区野方(東京都)へ向かい、同じく信者であった妻を説得して連れ出した。実はこのとき、その様子を新実にみられていた。
(岡崎が妻を説得した場所は、野方ということだけ明らかになっている。野方といえば、この年の6月に開設される「オウム真理教附属医院」のある場所であるため、その予定地であったのではと推察)

それから岡崎は再び世田谷の自室に戻り、着替えをする。その後、江東区亀戸(東京都)のホテルに妻と共にチェックイン。その一室で教団から持ち出した現金を数え、その金額を確認した。

そして翌日、神奈川県厚木市から現金を宅配便で発送。この発送先は自身の故郷・山口県の知人宅であった。このとき同時に、持ち出した現金以外の物(南荻窪のアパートの鍵、通帳、実印、重要書類)は返却するために教団へ発送した。
それからは、神奈川県小田原市内の宿泊施設を転々としながら、名古屋(愛知)、京都、米子(鳥取)を経て、現金の発送先である山口県宇部市の知人宅に身を寄せた。
(尚、このとき岡崎は一度北上し、新潟県を経由している。これは名古屋に行く前であると推察。詳しくは後述)

岡崎の現金持ち出し―、
これはその後すぐに教団の知るところとなる。というのも発送元が神奈川県であり、発送先の友人宅は山口県、そして教団は東京都、すると同時に発送しても教団宛ての荷物の方が早く届く。
岡崎からの荷物をいち早く受け取った教団側が事態を察し、早川が配達業者に問い合わせをしたところ、岡崎が別の荷物を山口県に発送していることを知る。早川はこの荷物の中身が現金であると見破り、業者に「あの荷物は犯罪に関係しているので配達をストップしてほしい」と申し入れた。これにより、現金入りの荷物は山口県の知人宅へ届く前に教団へと戻された。
こうして岡崎の2億2,000万円にも及ぶ現金持ち出しは失敗に終わった。

 

罪滅ぼしとしての導き

逃亡から6日後となる2月16日、岡崎は新潟県にいた。
これは事件の管轄である神奈川県警や、殺害された坂本さんが所属していた横浜合同法律事務所に宛てられた手紙の消印から明らかになっている。
(手紙の消印は新潟県上越市の郵便局であった。上越市といえば、殺害された坂本さんが埋められた場所である)

この手紙の内容は以下のとおり。

「龍彦ちゃんが眠っている。だれかが起こして龍彦ちゃんを煙にしようとしている。早く助けてあげないと!2月17日の夜、煙にされてしまうかも。早くお願い、助けて!」

一見すると不可解な文章にも映るが、これは岡崎が匿名で手紙を出していたことをみると、カムフラージュの目的であったと推察できる。
この手紙は速達で出されていたほか、遺体遺棄現場を×印で示した周辺地図と現場付近の写真、遺体の遺棄状況を克明に記した見取り図が同封されていた。

それまでにも方々から県警にはさまざまな情報が寄せられていたが、どれも漠然としていて信憑性に欠けるものであった。その中にあって、岡崎の出した匿名のこの手紙は、最も具体的で確度が高いと思わせる情報であった。
そのため2月21日、長野県警が主導する形で神奈川県警と合同の捜索が開始。これは約40人態勢で行われた。
捜索は手紙に記された付近で行われたが、この日現場には約1メートルの積雪があり、これが捜索の大きな障害となる。この捜索はわずか1日で打ち切られるが、その後雪解けを待って再捜索が行われることとなった。再捜索は5月に行われたが、その再捜索でも龍彦ちゃんの遺体発見には至らなかった。
(再捜索時、遺体は目と鼻の先にあったが、もう一歩のところで捜索隊の捜索範囲に漏れてしまっていた。遺体は捜索現場から僅か10mほどの距離だった)

 

龍彦ちゃんの遺体遺棄現場を記す手紙を新潟から投函した岡崎は、その帰り足で別の手紙を東京駅から投函。これは坂本さんと都子さんの遺体遺棄現場を記したものであり、あて先はやはり神奈川県警と横浜合同法律事務所であった。
ところがこの直後、岡崎は
麻原に電話をかけて事件の口止め料として1,000万円を要求。このとき岡崎は手持ちが「170万円しかない」と麻原に告げており、その結果、麻原は830万円を振り込むことを岡崎に約束した。そのため、岡崎は東京駅で投函した手紙を横浜の郵便局で回収している。

尚、岡崎はオウム脱会後、週刊誌から100万円を超える謝礼を受け取り、インタビューに応じている。

 

「教団からの逃亡」「遺体遺棄現場を示した手紙」―、
これらのことから、岡崎は幾ばくかの良心の呵責に苛まれていたことが窺える。


いよいよ完結―、【パート5】へ。

 

【プルシャ】
オウム真理教のシンボルマークなどが刻まれた100円玉大のバッヂ。
「神秘のセラミックハーン」なる素材で作られているらしいが、どうみてもただのプラスチック製である。
教祖の麻原が2日がかりで精魂込めて創造したものとされているが、どう考えても外注で作ったか、末端信者らが手作りしたものである。プラスチックに接着剤で安全ピンをくっつけただけの粗悪品。
当初は、極限られた信者にしか配布されない”とてもありがたいもの”であったが、中川が事件現場にこれを残してきたことにより、事件後に急ピッチで大量生産された。そして、それらは教団外部の人間に配り、”プルシャは教団関係者以外も持っている”という既成事実を作りあげて犯行をカムフラージュした。

 

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