坂本堤弁護士一家殺害事件 -5-

これは「坂本堤弁護士一家殺害事件」に関する記事の【パート5です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

坂本堤弁護士一家殺害事件 -1-

坂本堤弁護士一家殺害事件 -2-

坂本堤弁護士一家殺害事件 -3-

坂本堤弁護士一家殺害事件 -4-


 

岡崎 一明のオウム脱会後

1990年2月10日の教団脱走後、岡崎とその周辺の様子は以下のとおり。

 

1990年

4月


故郷・山口県で小中学生を対象にした学習塾『學塾』を開く

 

1991年

11月14日


殺害された坂本さんの知人弁護士が岡崎の塾を訪ね、事件について問い詰める。しかし岡崎は事件への関与を否定

 

11月20日


教団から共に脱走した妻と離婚

 

1995年

3月


教団が起こした「地下鉄サリン事件」(3月20日)、「警察庁長官狙撃事件」(3月30日)を受け、本事件について警察に明かすことを決意。自ら警察に電話をかけ、その旨を伝える

 

4月初め


本事件の管轄である神奈川県警の刑事と接触

 

4月6日深夜~7日未明


神奈川県警の任意聴取に応じ、そこで『坂本堤弁護士一家殺害事件』への関与を認める。それだけでなく、「オウム真理教男性信者殺害事件」(第2のオウム事件)でのTさん殺害についても自供した

 

4月29日~5月9日


岡崎は交際中の中国人女性と結婚するために中国へ渡航。
(実はこのとき取り調べの期間中にあったが、警察は岡崎の出国を許可。警察は岡崎が必ず帰ってくると信じていた)

5月5日、岡崎は渡航先の中国で中国人女性と再婚。その後、岡崎は約束どおり帰国。それからは警察の管理下に置かれ、神奈川県小田原市の保護所やホテルで隔離された生活を送る

 

5月20日


本事件において、殺人・死体遺棄をしたとして自首。これを受けて、神奈川県警が自首調書を作成。そしてこれを機に、『坂本堤弁護士一家殺害事件』がオウム真理教の犯行であると断定される

 

9月6日


それまでの岡崎の供述を基に、殺害された3人の遺体捜索に着手していた警視庁と神奈川県警。そしてこの日、新潟県内で坂本さんの遺体を発見。これにより、岡崎は坂本さん殺害容疑で緊急逮捕される

 

9月7日


富山県内で死蝋化した都子さんの遺体が発見される
(遺体が何らかの理由によって腐敗菌が繁殖しない条件下に置かれ、かつ外気と遮断された状態にあると腐敗を免れることがある。すると遺体の脂肪が変性して、遺体全体が蝋状もしくはチーズのような状態になる。これを「死蝋化」という)

 

9月10日


長野県内で龍彦ちゃんの遺体が発見される
(龍彦ちゃんの遺体捜索は難航を極めた)

 

10月10日


『オウム真理教男性信者殺害事件』で起訴

 

10月13日


坂本堤弁護士一家殺害事件』で起訴

 

【岡崎 一明】初公判 (第一審)

1996年4月17日―、
東京地方裁判所で開かれた初公判。ここで岡崎は起訴事実を認める。

 

一審判決


1998年7月6日―、
論告求刑において、検察側が岡崎の死刑を求刑。

 

同年7月29日―、
弁護側が最終弁論、これにて結審。

 

同年10月23日午前10時―、
岡崎は東京地裁で最も大きい104号法廷に出廷。
(このときの岡崎の姿は、モスグリーンのシャツに紺のスーツ姿)

「被告は前に」と山室 恵裁判長に促されると、岡崎は陳述台に立った後に軽く一礼。そして裁判長から「主文は後で言い渡します」と告げられると、低い声で「はい」と答え、被告席に着いた。

【主文後回し】
:しゅぶんあとまわし
主文とは、「裁判における結論」のこと。つまり、『判決』と同義。
一般に刑事裁判は、「主文(判決)」⇒「判決理由」を述べるという流れ。ところが、死刑判決を言い渡す場合においては、「
判決理由」⇒「主文(判決)」となる。これは死刑判決を先に言い渡してしまうと、被告人が動揺・困惑してその後の判決理由を聴けなくなってしまう可能性があるためである。
判決理由は、”なぜそのような判決になったのか”を示す大切なものであるため、死刑判決が下る裁判においてはこのような措置がとられる。
つまり、裁判がはじまった際に裁判長が主文を後回しにすれば、被告人に死刑判決が言い渡されると思ってよい。そのため、被告人がこれを知っている場合、この措置は意味を成さない。

 

このとき裁判長が述べた判決理由は以下のとおり。

1995年4月、岡崎が自ら神奈川県警の刑事に接触したことについて


これは自発的な行動であることから、自首に当たると認定された。しかしながら、その動機は「反省」ではなく、教団によって殺されるという恐怖心に駆動され警察に駆け込んだ。つまり、それは『保身』であったとされた。
さらに、岡崎がその自供時に坂本さんの首を絞めたことを隠していたこと、このことからは自身の刑事責任が重くなることを危惧していた様子が窺え、ここでも岡崎の『保身』を指摘。
こうしたことから、岡崎の自首は認めながらも、それによる減刑は相当ではないと判断された。

 

岡崎自身のマインドコントロールについて


「教義を信じて犯行に及んだことは否定できない」としながらも、「謀議から犯行の準備など一連の流れの中で冷静かつ合理的な行動をみせ、自らの判断と意思で首謀者である麻原の指示に従った」とした。

 

教団が犯行に及んだ動機について


「首謀者・麻原と複数の教団幹部らが犯行の具体案などについて協議していたこと、このことから計画性、組織性が認められる」とされた。
これに加えて、「残虐極まる犯行様式、特筆すべきは無抵抗である乳児の尊い命を奪った凶行には戦慄を禁じ得ず、その冷酷さと非情さを窺わせる。常軌を逸し、社会的影響の甚大な行為である」と非難。

 

こうしたほかに、岡崎は年金保険を妻名義にしており、遺族に対する被害弁済の事実がないこと、またその意思がみられないことが岡崎にとって不利な材料となった。

これらを総合して、岡崎の自主的な供述が事件の解明に貢献し、反省の態度を示していることなどを評価しながらも、「被告の刑事責任はあまりにも重く、極刑をもって臨まざるを得ない」と結論付けられた。

こうして、東京地裁は検察の求刑どおり、岡崎に死刑を言い渡した。

 

裁判長がこうした判決理由を読み上げる約50分間、岡崎は終始落ち着いた様子であり、うつむき加減の姿勢を崩さなかった。また、読み上げられる判決理由が都子さんや龍彦ちゃん殺害の場面に及ぶと、泣き出しそうな表情を浮かべる一幕もあった。
尚、判決理由の後に主文(死刑宣告)が言い渡された瞬間、岡崎はうろたえることなくただ一点を見つめたまま、表情ひとつ変えなかった。事実、岡崎は自身に死刑判決が言い渡されることを悟っていたとされている。
とはいいながら、この死刑判決を受けて岡崎は控訴する。

 

控訴審判決 (第二審判決)

2001年12月13日午前10時―、
岡崎は緊張した面持ちで入廷。このときの恰好は浅黄色のシャツに白いジャケットというものであった。

二審では、自首したことや犯行時に麻原のマインドコントロール下にあったことを主張し、死刑の回避を求めていた岡崎―。
その岡崎に対し、河辺 義正裁判長は一審同様に主文の言い渡しに先立って判決理由を以下のように述べた。

「被告は主体的な判断で麻原被告の教義を信じ、指示に従っていた。麻原被告を信じても人格それ自体は破壊されず、価値観の変容も自ら望んだことによって生じた」

さらに、岡崎の自首については評価する一方で以下のようにも述べた。

「被告の責任や非難を減少させるにはほど遠い」

こうして東京地裁は、死刑を言い渡した一審判決を支持し控訴を棄却。改めて岡崎に死刑判決を言い渡す。このとき岡崎は放心状態で被告席に座り込んだ。

控訴審(二審)判決を受け、岡崎は上告。最後まで自身の死刑回避をかけて争う姿勢をみせた。

 

上告審判決 (第三審判決)

2005年4月7日―
上告審においても、「法治国家の秩序を一顧だにしない反社会性の極めて高い犯行」として岡崎の上告は棄却。これにより、岡崎の死刑が確定した

これにより、岡崎はオウム真理教関係者で初めて死刑が確定した人物となった。

 

【岡崎 一明】死刑確定後

死刑確定後の2008年頃より、岡崎は「言葉以外でないと表現できない」として、水墨画に傾倒。これに伴い、岡崎は『宮前 吼宇 (みやまえ こうう)』という画号(ペンネーム)を名乗り、贖罪として絵画活動を開始した。
そしてその後の2010年には、公募展に出展するにまで至る。このとき岡崎は、アメリカ先住民(インディアン)の母子を描いた。

生後間もなく母と生き別れた岡崎、その一葉の絵に込められた想いとは―。

インディアンの母子を描いた水墨画
『誇り高き母』/ 岡崎 一明 (宮前 吼宇)

 

その後も岡崎は作品の制作を精力的に行い、個展を開くにまで至った。

 

 

宮前 吼宇の作品

『雪の朝』
2013年(平成25年)
「第9回 死刑囚表現展」出品

 

『夫婦鶴』
2014年(平成26年)
「第10回 死刑囚表現展」出品

 

『こだわりめさるな』
2014年(平成26年)
「第10回 死刑囚表現展」出品

 

『再プログラミング自己啓発』
2015年(平成27年)1月

 

『月下の鯉』
2018年(平成30年)

 

『命 -梟と凍て鶴-』
2018年(平成30年)4月

 

『凍鶴の朝』
2018年(平成30年)6月

 

『タイトル不明』
制作時期不明

 

中学生時代に美術部に入ってはいたものの、それまで体系的に絵画を学んだり、絵画の制作活動はしていなかった岡崎。いうなれば素人である岡崎であるが、その作品の評価は高い。
自己流、そして制約のある拘置所という環境において、スプレーやマスキングを用いることなく、どのようにして水墨画を描いていたのか―。
宮前 吼宇は一通の手紙に、自身の作品をいかにして描いているのか、いかにして独自のぼかし技法を用いているのか。その特殊描法について語っている。

 

ここで紹介した作品はごく一部であり、岡崎は死刑確定後からその生涯を閉じるまでに数多くの作品を遺した。

 

岡崎 一明という男

一般に岡崎(おかさき)の名で知られているが、その姓は度々変わった。
出生時は「岡崎」、幼少期からオウム時代は「佐伯(さいき)」、逮捕時は再び「岡崎」、死刑執行時は「宮前」である。

成人した岡崎の体型は、身長161cm、体重50kg前後と非常に小柄であった。ちなみに、逮捕・起訴後の裁判時には体重が60kgほどにまで増えており、やや肥満気味の体型であった。しかしながら、基本的には筋肉質闘士型の体型とされる。
(「筋肉質闘士型」とは、筋肉・骨格が発達し、肩幅や胸幅が広くがっしりとした体つきのこと。粘着質な性格と関連があるとされている)

知能指数(IQ)は91であり、知能水準は平均レベルといえる。
(IQの中央値は「100」)

 

周囲の人々が語る岡崎の人物像

  • 意志の強い人
  • 良くも悪くも個性的
  • 頭がよく優しい
  • 拝金主義
  • 有能な人
  • 饒舌で押しが強い、まさに営業向き
  • リーダーシップがあり、周囲に信頼される人

 

2018年7月26日―、
上川 陽子法務大臣の死刑執行命令(同年7月24日付)により、名古屋拘置所にて死刑執行。57歳没。

岡崎は自身の罪を、自らの死をもって償った。

 

正義と奉仕、坂本 堤と都子 

幼いころから感受性豊かであった都子さんは自身が19歳のとき、日記にひとつの詩をしたためている。

 

赤い毛糸に だいだいの毛糸を 結びたい

だいだいの毛糸に レモン色の毛糸を 結びたい

レモン色の毛糸に 空色の毛糸も 結びたい

青い空と 濃い緑の森を結びたい

結びたいんだ このまちに生きる ひとり ひとりを

結びたいんだ 私の思いを あなたの心に

 

たとえ辛く苦しくても、たとえ深い悲しみに包まれていても―、どんなときでもその中で喜びを見つけるのが得意であった都子さん。そんな彼女を周囲の人たちは、「幸せ探しの名人」と呼んだ。

 

坂本 都子

私心を捨て、奉仕に身を捧げた女性であった。夫へ、社会の弱者へ。

 


法の力をもって社会の弱者に手を差し伸べたいと弁護士を志した坂本 堤さん。
司法試験に合格し、その道を歩みはじめた頃、体の不自由な友人について記していた。そして彼は、その最後をこう結ぶ。

 

僕は思う。心に希望を、外へ拡がりゆく世界を持つ者は強いと。
小さく、殻を閉ざして自分を守ることしか考えられなくなった人間は弱いと。

(中略)

彼らは外へ出たがっている。外へ出してくれる人々の”手”を待っている。
僕も外へ出ようと頑張っている。
心に希望をもって、外へ拡がりゆく世界を獲得したいと思っている。

 

弁護士 坂本 堤

平成初期という混沌の時代に、正義の人は最期までその正義を貫いた。

 

おわりに

 

事件からおよそ6年後となる1995年10月22日―、
横浜アリーナで坂本さん一家の合同葬儀が行われた。

 

日本弁護士連合会、関東弁護士会連合会、神奈川県弁護士会の共催。
広い会場内では、日本フィルハーモニー交響楽団による演奏・合奏が流れる。献花者の列はアリーナの外周を一周しても納まらず、新横浜駅まで続いた。時間が許さず、とうとう会場に入ることすらできない人が大勢がいた。

 

この葬儀の参列者は約26,000人にも及んだ。

 


 

私たちは決してカルトに”教化”されてはならない。

オラクルベリー・ズボンスキ(小野 天平)


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