新潟少女監禁事件 -1-


“ボクちゃん”

 

可愛い息子のために商店へ使いにいく。そこで買うのはアイドル歌手のレコードや競馬新聞。
またある日は車で息子を競馬場へ送り、レースが終わるまでベンチで待つ。
さらには、”増築してほしい”という息子の願いを聞き入れ、700万円を投じる。

息子を愛する献身的な母の姿がそこにはあった。

「優しい母と息子」

ところが、その歪みは次第に大きくなってゆく—。

 

『新潟少女監禁事件』の概要

事件が起きたのは1990年(平成2年)11月13日

新潟県三条市の路上で少女(当時小学4年生/9歳)が行方不明となった事件である。
後の犯人逮捕により、少女は拉致・監禁されていたことが明らかになった。約9年間という監禁期間もさることながら、母親と同居する自宅自室で少女を監禁していたことでも世間に大きな衝撃を与えた。
さらにこの事件によって、本事件の管轄であった新潟県警の不祥事や捜査の不手際が明るみになり、その組織体制の未整備が浮き彫りに。
また、この事件により「引きこもり」が社会的に認知されると同時に、これに対する偏見が加速した。本事件の犯人が引きこもりであったためである。

本事件は、「家族の在り方」を深く考えさせられる事件であるといえる―。

 

【『拉致』と『誘拐』の違い】
これらの違いを気にせず、交錯して使われているケースがよくみられる。

『拉致』・・・暴力脅迫によって特定の人物を連れ去ること
『誘拐』・・・巧みな言葉を用いて特定の人物を連れ去ること

このように拉致は”無理やりに”誘拐は”誘い出す・騙す”というニュアンスを含んでいる。本事件において、少女は脅迫によって連れ去られているので、拉致となる。(犯行の詳細は後述)

 

【事件の解説】事件当日の様子 (犯人側)

本事件犯人:佐藤 宜行

本事件の犯人は佐藤 宜行(犯行当時28歳)。

事件当日(1990年11月13日)の17時頃、佐藤は新潟県三条市内の農道を車で走行していた。
そこで本事件被害者となる佐野 房子さん(以下:房子さん)の姿を目にし、佐藤はその場で彼女の拉致を決意する。このとき房子さんは下校途中であった。

佐藤は房子さんの目の前で車を停車させて下車。すると正面から彼女に向ってサバイバルナイフを突きつけて脅迫した。
佐藤は「トランクに入れ」と指示したが、房子さんがこれを拒んだため、佐藤は彼女を無理やり車のトランクに押し込んだ。そして房子さんをトランクに閉じ込めた車は発進。佐藤はそのまま自宅のある柏崎方面へ車を走らせた。
自宅へ帰る道中、佐藤は途中で一度車を停める。そしてトランクへ回り、房子さんの両手首と両膝を緊縛。さらには目隠しを施した。
(この目的は房子さんがトランク内で暴れることのほか、自室へ運び入れる際に自宅や自宅内の様子をみられることを避けるためであった。また、このとき緊縛や目隠しに使ったのは粘着テープであり、佐藤はこれを車内に常備していた)
その後、房子さんを乗せた車は再び発進し、やがて佐藤の自宅に到着した。
車が停車し、トランクが開かれた音を聞いた房子さんは、目の前にいるであろう佐藤に尋ねる。

「おうちへ帰れるの?」

“暗闇の中”、どこに着いたとも知れない彼女の中にはまだ希望があったのだろう。しかし、佐藤の返答で彼女はすべてを悟ることになる。

「これから俺と一緒に暮らすんだ」

無事に房子さんを自宅まで連れてきた佐藤であったが、自宅に着いてからが問題であった。それは共に暮らしていた母親の存在である。
(佐藤は母親と二人暮らしであった。その理由は後述)

冒頭にも触れているが、佐藤の自宅は増築されている。そのため母屋と増築部分とで少々複雑な造りになっていた。
結果、佐藤はこうした自宅の構造を利用し、母親にバレずに房子さんを自室へ連れ込むことに成功した。

 

道を歩く少女を拉致、そして自室へ—、
一連の犯行を完遂した佐藤は房子さんの目隠しを解き、彼女に告げた。

「この部屋からは出られない。ずっとここで暮らすんだ。これを守らなければ、山に埋めてやる。海に沈めてやる」

この日から、佐藤と房子さんの3,364日にも及ぶ奇妙な”二人暮らし”がはじまった—。

 

【房子さんの拉致について】
佐藤によると、その動機は”可愛かったから”、”周囲に誰もいなかったから”であるという。すると衝動的な犯行であったようにもみえる。しかし先述のとおり、このとき佐藤はサバイバルナイフ(刃渡り約14cm)を携帯していた。
この事実と前出の「車内に常備していた粘着テープ」から、佐藤が女児の拉致を画策しており、この日は拉致のターゲットを探していたのではないかと臆度(おくたく)せずにはいられない。

携帯していたサバイバルナイフに関して:本人はあくまで”護身用であった”と主張
車内に常備していた粘着テープに関して:本人はこれを車内の清掃用と主張

 

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本事件犯人:佐藤 宜行のパーソナリティー

学生時代の佐藤

佐藤 宜行


1962年(昭和37年)7月15日生まれ。

父親はタクシー会社経営。元々は東京にある大企業の重役を送迎する運転手であったが、故郷である新潟県柏崎市へ戻り、起業した。
母親は保険外交員。

佐藤の両親が結婚したとき、母親は35歳、父親は61歳というかなり歳の離れた夫婦であった。30代後半での子どもということで、母親は佐藤の成人後も”ボクちゃん”と呼び、溺愛した。

 

-小学1年生-
自宅が新築される。敷地の広い、大きく立派な家。
父親がタクシー会社を経営していたこと、後に増築したこと、これらと併せて考えると、佐藤は裕福な家庭で育ったことが窺える。

佐藤の自宅
※撮影:八木澤 高明氏
記事掲載:小野 天平

 

-中学1年生-
佐藤は「不潔恐怖症」と診断される。これは佐藤が学校に対し恐怖感を覚え、登校が困難になり精神科を受診したことで明らかになった。ちなみに佐藤の父親も同様に不潔恐怖症であった。
尚、この頃父親はすでに70代半ばを過ぎており、佐藤は年老いた父親を”汚い”と感じるようになった。不潔恐怖症と反抗期が相まってか、この時期から父親を嫌うようになった。

【不潔恐怖症】
俗にいう「潔癖症」である。一般に認知されている症状は「汚れや細菌を過剰に気にする」というものである。
これを精神医学的にいえば『不潔恐怖症(強迫性障害)』となる。
(「脅迫行為*」を繰り返してしまう精神障害の一種。
この脅迫行為の代表的なものは、「ことあるごとに手洗いをする」「一度触った物はその度にアルコール消毒をする」など。
*不合理な行為を自分の意思に反して反復してしまうこと)

 

-高校時代-
佐藤は比較的背が高く、身長は175cmほど。ところが存在感はなく、佐藤は校内において目立たない存在であった。また、覇気がなく弱々しい話し方であったために、クラスメイトからは”オカマ”と呼ばれていた。
こうしたことから、佐藤はいじめられていたか、それに近い扱いを受けていたことは想像に容易い。

この時期から佐藤は塞ぎがちになり、自身の中にある負の感情を沸々と募らせていった。
この高校時代こそ、佐藤の歪んだパーソナリティーの形成に加担したのではないかと筆者は推察している。

 

-高校卒業後 (18歳)-
高校を卒業し、自動車部品製造の仕事に就く。佐藤がこの職を選んだ理由は、母親の勧めであったからである。
こうして就職するも、職場での人間関係がうまくいかず、佐藤は悩むようになる。これに加え、この頃佐藤に度重なる奇行がみられるようになり、暗雲が立ち込めた。
結局、これらが原因で佐藤は仕事を3か月で退職。佐藤はこれ以降、仕事をせずに引きこもるようになった。

 

-19歳-
1981年7月、かねてより毛嫌いしていた父親を家から追い出すという騒動を起こす。
これには息子に甘い母親もさすがに腹を立て、佐藤と口論した。そしてその末に母親が言い放った「私も出ていく」という言葉に佐藤は激昂。その結果、佐藤は家の仏壇に火を点けるという奇行をここでもみせた。
この放火は小火(ぼや)に留まったが、”キレたら何をするか分からない”という息子の恐ろしさに母親は危機感を募らせた。

この一件で、母親は佐藤に2度目となる精神科の受診をさせる。
(このとき受診したのは長岡市の大きな国立病院であり、前回とは異なる病院であったと思われる。このことからも母親が事態を重く受け止めている心情が窺い知れる)

尚、この精神科受診は佐藤が中学1年生のとき以来であったが、このときも6年前と同様に「強迫性障害」と診断された。その上で佐藤には即日入院の措置が取られ、向精神薬が投与された。
この入院は1か月ほどに及んだ。

 

-23歳-
佐藤は自身の就職と引き換えに、自宅の増築を母親に打診する。

「僕もいい加減、就職しなければならない。お母さんにいつまでも甘えているわけにはいかない。そこで、独立して生活できるように増築してほしい」

一見すると佐藤が改心したと窺わせる立派な口ぶりであるが、理路整然としておらず、単に増築させるための売り込み口上であったように思わざるを得ない。しかし母親はこの佐藤の言葉に期待感を抱き、直ちに700万円を投じて増築を行った。
ところがいざ増築の工事が開始すると、佐藤は自室に工事業者が立ち入ることを頑なに拒んだため、工事が進まなくなるという事態に。結局、この増築工事は途中で中止された。
これで当然のことながら、佐藤が持ちかけた自身の就職の話も立ち消えとなる。そしてこの頃から佐藤には、障子を破いたり窓ガラスを割るといった家庭内暴力の兆候がみられるようになった。

 

-27歳-
1989年6月13日、佐藤は事件を起こす(第一の事件)。
佐藤は下校途中であった小学4年生(9歳)の少女を空き地に連れ込もうとする。しかし別の児童が通報し、駆けつけた学校の事務員に取り押さえられ、その後現行犯逮捕された。
このときの佐藤の目的は少女に対するわいせつ行為であった。

同年9月19日、新潟地裁長岡支部は佐藤に対し、強制わいせつ未遂の罪で懲役1執行猶予3の有罪判決を言い渡した。10月15日にこれが確定。

この事件における佐藤の処遇として、裁判官はその監督・指導を母親に委ねることとし、保護観察(実刑)の必要はないとした。これは再犯の可能性は低いという判断に基づくものであった。
(当然のことながら、執行猶予が付いたのは「初犯」、「未遂」という部分が大きい)

 

【新潟県警の管理体制】
本事件(新潟少女監禁事件*)において、当時の新潟県警の管理体制・組織体制がしばしばやり玉に挙げられる。*前出「強制わいせつ未遂事件」と混同しないように注意

定説では、新潟県警は佐藤の起こしたこの強制わいせつ未遂事件(第一の事件)において、佐藤を「前歴者リスト」に登録していなかったとされている。しかし”前歴者”というのは、前科以外の犯罪歴のことを指す。
佐藤の場合は逮捕・起訴され、有罪判決が下っている。つまりこれは前科となるため、そもそも佐藤はこの事件において前歴者ではない。それではなぜ本事件が語られると、この定説が持ち上がるのか―。

これは筆者の仮説になるが、”前科と前歴の違いを解っていない者が曲解し、それが流布したのではないか”とみている。
(ちなみに、第一の事件発生後、その事後処理(管理体制)に不手際があったことは事実である。
その証拠に、新潟県警はこの件が後に問題視された際、犯罪者データの登録に不備があったことを認めている。具体的には、「”佐藤のデータ”を県警本部に送信していなかった」ということであった。
これを踏まえた上で、新潟県警(当時)の管理体制に対する筆者の推察は以下のとおり)

もしかすると、新潟県警はこの第一の事件において、佐藤の「犯罪者データ」を採っていなかった可能性がある
通常、逮捕されると指紋をはじめマグショット*などの犯罪者データを採られる。仮にこれが行われていなかったとすると大問題である。
*識別番号などと共に多角度から撮影される人物写真

新潟県警はそもそも佐藤を犯罪者データベースに登録していなかったのか。それとも犯罪者データの共有を怠っていただけなのか―。
尚、この第一の事件が起きた時点の管理体制について、詳しいことは明らかになっていない。真相は謎である。

マグショットの例
(写真はミュージシャンのジム・モリソン)

佐藤が第一の事件を起こした1989年のこの年、老人介護施設に入所していた佐藤の父親が亡くなった—。


被害者側の事件当時の様子や、監禁生活の様子は【パート2】にて—。

 

コラム 【佐藤の母親に対する態度】

冒頭に触れているとおり、佐藤は日常的に母親を使いに行かせていた。商店ではアイドル歌手のレコードや競馬新聞。ときには競馬場の行き帰りの足に。
これで商店の人たちの間ではある種の有名人となり、競馬場の常連たちの間でも”息子を待つ母”として知られていた。
(レースが終わるまで、競馬場のベンチで健気に待ち続ける姿が印象的であったという)

佐藤は競馬に勝つと、母親に馴染みの寿司屋で極上のトロのにぎりを買わせることがあった。これは10貫で8,000円というかなりの高級なもの。
(尚、この”買わせる”というニュアンスに関してであるが、筆者は恐らくその言葉のとおりであると考えている。
“競馬に勝ったからその金でご馳走”ということではなく、”競馬に勝ったからご馳走してくれ”ということであったのではないかということである)

父親に対してもそうであったが、母親に対してぞんざいな扱いをする様をみると、佐藤は「内弁慶」であったことは間違いない。

また、オタク気質であり、引きこもっていながらも度々競馬場へ繰り出していたことを考えると、ギャンブル依存症ないしその予備軍であったのではないかと推察できる。

尚、筆者は佐藤が純粋な引きこもりではなく、いわばならざるを得なくして引きこもりになったと考えている。(その理由は後述)

 

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