オウム真理教国土利用計画法違反事件

これはオウム真理教が起こした一連の事件に関する記事です。本記事では【第4のオウム事件】について言及しています。
本編単体でもお読みいただけますが「オウム事件シリーズ」となっているため、第1の事件から順にお読みいただいた方が事件関連の出来事や語句、人物など、より理解が深まります。

【第1のオウム事件】オウム真理教在家信者死亡事件

【第2のオウム事件】オウム真理教男性信者殺害事件

【第3のオウム事件】坂本堤弁護士一家殺害事件


 

“これはお布施”

 

『オウム真理教国土利用計画法違反事件』の概要

1990年(平成2年)にオウム真理教が起こした文書偽造偽証事件。教団が起こした一連の事件の中で、死者が出なかった最初の事件。

この事件によって、教団幹部らが指名手配・逮捕されたほか、教団がその組織体制の転換を余儀なくされた。また、この事件に関わった教団幹部のある一人の人物がその後世間に広く認知されることとなった。
教団にとっては、ひとつのターニングポイントともいえる事件である。

 

本事件に関係する主な人物たち

青山 吉伸 (あおやま よしのぶ) -オウム真理教国土利用計画法違反事件-


1960年3月9日生まれ。大阪府出身。事件当時30歳。ホーリーネームは「アパーヤージャハ」。最終ステージは「正悟師」。

幼い頃は内気な性格で、いつでも泣いているような子どもであった。金持ちの家庭で育つ、秀才タイプ。
大阪府立高津高等学校を経て、京都大学法学部を卒業。大学在学中の21歳の時、旧司法試験に合格。これは全国で最年少という快挙であった。

自身が弁護士を志したきっかけは、公害問題(薬害スモン被害者)を目の当たりにしたことであった。
1984年には、弁護士として「なにわ共同法律事務所」に所属し、公害の訴訟問題などを手掛けた。

本来、法をもって人を救う立場にある青山であったが、悪の教団「オウム」との出会いはほんの些細なことがきっかけであった—。
毎日の通勤で利用する近鉄。その満員電車で圧迫され続けたことにより、青山は腰痛を発症。そこで、その治療のためにヨガ道場へ通いはじめるが、この道場こそ
がオウムが主催しているものであった。
それから青山は麻原の著書を読むようになったこと、また道場での修行により腰痛が快癒したことからオウムに染まっていくことになる。
尚、中川 智正と同じく、教団の音楽コンサートを観て感銘を受けたひとりでもあり、これもその一端であるとみられる。

1988年2月、入信。この翌年の秋に「なにわ共同法律事務所」を退所。そして『青山法律事務所』を開設し、独立した。
独立直後の1989年12月5日に出家し、教団の顧問弁護士を務めるようになる。尚、青山はこの年に起きたTBS問題(「
坂本堤弁護士一家殺害事件」)の際、訴訟回避の交渉のために坂本弁護士の事務所へ訪ねている。

実はこの青山、歌が非常に上手いことで評判であり、「オウムソング」の歌手としても活躍していた。ちなみに、数あるオウムソングの中でボーカルを務めた曲は、「ストップ・ザ・オウムバッシング」と「戦え真理のために」である。

元々は社会の弱者救済のために弁護士となった青山。そう考えると、殺害された坂本 堤弁護士と同じ志を抱いていたはず。
反オウム弁護士―、一方でオウム顧問弁護士―。奇しくも同じ弁護士でありながら、坂本弁護士とは立場を異にした人物である。

 

 

上祐 史浩 (じょうゆう ふみひろ) -オウム真理教国土利用計画法違反事件-


1962年12月17日生まれ。福岡県出身。事件当時27歳。ホーリーネームは「マイトレーヤ」。最終ステージは「正大師」。

父が銀行員、母が元教師という”堅い”家庭に生まれる。ところがまもなくして、父の女性問題や、脱サラして立ち上げた事業の失敗などで夫婦別居状態となり、母と2人で暮らすように。あまり目立たず、超能力が好きな子ども時代であった。

早稲田大学高等学院、早稲田大学理工学部を経て、1987年に早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了。
在学中の1986年8月にオウム真理教の前身である「オウム神仙の会」に入会。これは岡崎 一明に次ぐ2番目であった。

大学院卒業後(1987年4月)は、特殊法人「宇宙開発事業団」(現 独立行政法人「宇宙航空研究開発機構」)に入る。
宇宙開発事業団に入った理由は、事業団の会長が「これからの地球を救うのは宇宙である」とテレビで語っているのを観て、これに感銘を受けたためである。そうして入った事業団であったが、これをわずか1ヶ月で退職。そして出家した。

教団の黎明期から最盛期の過渡期ともいえる1992年、その12月には尊師・麻原に次ぐステージ(階位)である「正大師」となる。翌1993年9月にはロシア支部長に就任。
英語が堪能であることや、その巧みな詭弁さから、教団の最盛期にはスポークスマンを務めた。オウム最盛期、上祐がしきりにメディア露出していたのはそのためである。
頭の回転の速さ、そして在学中にディベートサークルに在籍していたこともあり、ディベートに長けていた。突きつけられたどんな言葉もはね返すその口ぶりから、”ああ言えばこう言う”をもじって「ああいえば上祐」と揶揄された。
またその知的なイメージと端正な顔立ちから、「上祐ギャル」と呼ばれる熱狂的な女性ファンまで現れ、ファンクラブができるなど、尊師・麻原を差し置いて一躍”時の人”となった。

 

事件の解説

目下、教団繁栄の妨げとなっていた反オウム・坂本 堤弁護士を殺害したオウム真理教。(「坂本堤弁護士一家殺害事件」)
その翌年となる1990年教団は熊本県阿蘇郡波野村(現・阿蘇市)に教団施設の建設計画を企てる。

ほどなくして、同村の森林地帯およそ15万平方メートルを買収すべく地権者(以下:A)と交渉。そして、この年の5月に取得した。
実は、このときAには約1,500万円の負債があり、この土地には抵当権が設定されていた。そのため当初、この取引ではAが教団に5,000万円で土地を売却することになっていたが、この事実を受けて教団がこの負債を肩代わりする形になる。そして、その差額3,500万円は、教団からAに現金で支払われた。
ところがその後すぐに、このAに500万円のさらなる負債があることが発覚。Aは、受け取った3,500万円から500万円返却する形で、教団に500万円を支払った。
土地の売買において、教団とAの間ではこうした一幕があった—。

 

“Aが土地を売却した。よりによってその相手はオウムだ”

Aによる教団への土地売却。その事実は、瞬く間に地元住民たちに知れ渡った。すると村では、一気に反対運動が沸き上がり、既に売買契約を済ませた教団としては非常に都合が悪くなる。
そこで教団は、当時一般に知られていなかった麻原の本名「松本 智津夫」を土地所有者の名義にし、さらにその売買価格を偽証して「国土利用計画法」に基づく届出を行った。
ところがその後、このことが報道されてしまい、その追及をかわすために「これはお布施」と主張。土地の取得はあくまで贈与であることを強調した。
教団は自らの主張を正当化するために、「土地の取得は売買ではない。よって届出も必要ない」として、一度提出した届出を取り下げた。これに伴って、「負担付贈与契約」なる名目で所有権移転登記を強行し、教団施設の建設に着手した。

こうした教団の様子を目の当たりにした波野村当局や地元住民は、教団に対する態度をさらに硬化させたほか、熊本県が教団に対し行政指導を行った。このとき県は土地に関する契約が無効であることを指摘、また土地の原状復帰を求めたが、これに法的拘束力がないために教団は無視し続けた。
その現状を受け、この年の8月6日、熊本県は教団を国土利用計画法と森林法違反で熊本県警に刑事告発
そして同年10月22日、熊本県警は教団施設の強制捜査に踏み切り、教団顧問弁護士の青山 吉伸を逮捕。さらに、教団幹部の早川 紀代秀と満生 均史を指名手配した。このとき、麻原の指示を受けていた早川と村井 秀夫、そして上祐 史浩は、普通電車に乗って宮城県仙台市まで逃走していた。尚、このとき3人は女装していた。
(その後の10月30日に早川と満生は出頭)

また翌11月には、古参幹部の石井 久子と大内 利裕も逮捕。こうした中で、教団トップの麻原も事情聴取を受けたが、麻原がその罪に問われることはなかった。

この強制捜査であるが、実は県警の中に信者がいたことで教団は事前にその情報を入手していた。そのおかげで教団の武装化した設備を予め隠蔽、強制捜査においてその発覚を逃れることができた。
教団はこの強制捜査を機に警察の動きを強く警戒、これにより教団の武装化が一時的に中断されることとなった。尚、この武装化解除は1992年半ばまで継続されることになるが、その間はテレビ出演や出版などを中心とした穏健な活動に重きを置くこととなる―。

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コラム 【オウムソング】

オウム真理教が制作したオリジナルソング。
基本としてそれらは麻原が作詞・作曲したとされているが、実際は音楽の心得のある信者たちによって製作された。数ある楽曲のほとんどは麻原がボーカルをとるが、青山 吉伸や村井 秀夫が歌う曲も存在する。
尚、オウム真理教の教祖であり歌手でもある麻原であるが、自身が音痴であることを自覚している。しかし本人曰く、「敢えて音程を外している」とのことである。

[楽曲について]
素人が制作したものであるため仕方ないが、曲の構成や技術面などは稚拙であり、まさに自主制作といったところ。
その音楽性はシンセサイザーを用いたポップスを軸としており、どれも軽快かつ覚えやすいものばかりである。
どの曲もその歌詞に”麻原 彰晃”の名が出てくるほか、曲によっては歌詞がほとんど”麻原 彰晃”のものもある。親しみやすいメロディに自らの名を執拗に乗せるその音楽性はカオスでありながら、セルフプロモーションにおいては非常に優れているといえる。

オウムソングの中で最も有名であるのは、『麻原彰晃マーチ』。
極めてキャッチ―で一度聴いたら耳から離れない中毒性を持つ。教団屈指のキラーチューン。

しょーこー
しょーこー
しょこしょこしょーこー
あーさーはーらーしょーこー

この歌詞でお馴染みの曲である。多くのメディアで取り上げられたことで有名になり、当時の小学生たちは皆、学校の教室や登下校中にこれを歌ったものである。
この麻原彰晃マーチは後に「尊師マーチ」とタイトル変更、そして”彰晃”から”尊師”へ歌詞が変更された。これは歌とはいえども、麻原を呼び捨てにするのは問題があるとされたためである。しかしながら、歌詞変更後の”尊師(そんし)”はメロディに上手くはまっておらず、この曲の良さを損なう結果となった。

『麻原彰晃マーチ』のほかにも、”わたしはやってない 潔白だ”のフレーズで有名な『エンマの数え歌』。”しょしょしょしょしょしょしょしょーこー”の歌詞と底抜けに陽気なメロディが印象的な『真理教、魔を祓う尊師の歌』などがオウムソングの代表曲として挙げられる。
オウムソングはどの曲も、ともすればギャグ路線になり得る(なっている)が、麻原は至って真面目であったと思われる。ところがもしもこれが確信犯であったなら、嘲笑して口ずさんだ我々の完敗といえる。
尚、これらの曲は動画投稿サイトで聴くことが可能だが、一度聴けば少なくとも3日間は頭から離れなくなるのでご注意いただきたい。

ちなみに筆者は「真理教、魔を祓う尊師の歌」が好きである。


第5のオウム事件】へ—。