グリコ・森永事件 -4-

これは『グリコ・森永事件』に関する記事の【パート4です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

グリコ・森永事件 -1-

グリコ・森永事件 -2-

グリコ・森永事件 -3-


 

不二家脅迫事件

1984年12月7日「不二家」の労務部長宅に脅迫状が届く。これには、音声テープと青酸ソーダが封入されていた。

 

12月15日、再び労務部長宅へ脅迫状。
その内容は、12月23日に梅田(大阪府)の百貨店屋上から現金2,000万円をばら撒くよう書かれていたが、不二家はこの馬鹿げた要求に従うことはなかった。

 

12月26日、東京都のスーパー社長宅に脅迫状。
その内容は、翌年1月5日に不二家が池袋(東京都)のビル屋上から現金2,000万円ばら撒くことを要求。このときも不二家は犯人側の要求を無視した。

 

1985年1月11日、それまで表沙汰になっていなかった「不二家脅迫事件」が初めて報道された。

 

尚、「不二家脅迫事件」の直前に犯人グループが交わした会話を収録した”ある音声”が存在している―、
この会話は1984年12月4日、アマチュア無線で行われたものであり、北海道岩内郡(いわないぐん)のアマチュア無線家によって偶然に傍受され、また録音されていたものである。
それには以下のような音声が確認できた―、

 

「21面相、こちら玉三郎」

「クスリは用意できたか」

「ひと、ふた、ひと、ろく。航空券が往復で確実に取れて、R6へ行く場合は日帰りで必ずアシがつかないよう戻ってくるように」
(“ひと、ふた―、”は12月16日の意味であると、「R6」はアマチュア無線における沖縄総合通信事務所の地域番号とみられている)

「不二家はやっぱり金払わんちゅうとんのけ」

「不二家は諦めた方がええわな、こりゃ」

 

無線音声の中で”21面相”と”玉三郎”をそれぞれ名乗る2人の男―、
これらは犯人の可能性が高いとして捜査対象となり、この無線音声はマスコミ向けに公開された。

 

東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件

1985年のバレンタインデー(2月14日)が近づく頃、東京都と愛知県で「どくいり きけん」のラベルが貼られた青酸入りチョコレートが相次いで発見される。ちなみにこの中には、「どくなし あんしん」と書かれたものもあり、これには本当に毒(青酸ソーダ)は入っていなかった。

青酸入りチョコレートとして使われたのは、これまで犯人グループの標的となった「グリコ」「森永」「不二家」の製品に加え、「明治製菓」や「ロッテ」もその対象となっていた。

そして―、
バレンタインデー前日となる
2月13日
報道機関に脅迫状が届く。これには、”バレンタインデー粉砕”が掲げられていた。

この事件は”毒入りチョコ事件”として世間を騒がせたが、バレンタインデーが終わるとともに、青酸入りチョコレートは次第に姿を消していった。

 

駿河屋脅迫事件

2月24日マスコミに森永製菓への脅迫を終わらせる旨を記した手紙が届く。
ところがその後の3月8日、和歌山県にある老舗和菓子会社「駿河屋」に5,000万円を要求する脅迫状が送りつけられる。さらに2日後、同社に現金の受け渡しを延期する旨の手紙が届くが、この手紙を最後に犯人グループからの連絡は途絶えた。

それと同時に―、
その後は一切、犯人グループからのマスコミや食品会社およびその関係者に対する脅迫は止んだ。

 

大手食品会社を標的とした『グリコ・森永事件』―、
“かい人21面相”は日常生活に戻り、そして世間もまた静まりかえった。

 

それから時は流れ―、
1994年(平成6年)、最初に起きた「江崎グリコ社長誘拐事件」が公訴時効となる。これに伴い、捜査体制は大幅に縮小。
そして、2000年(平成12年)2月13日0時―、
『グリコ・森永事件』を成す全ての事件における公訴時効が成立。こうして、昭和史に残る劇場型犯罪は”完全なる未解決”の結末を迎えて幕引きとなった―。

 

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事件の後日談

「駿河屋脅迫事件」から約5か月後となる同年1985年8月7日
かつて「ハウス食品脅迫事件」でパトロールをしていた滋賀県警の警官3人組。その中の1人であった滋賀県警本部長が、不審車両を乗り逃した責任を取るため辞職。そして焼身自殺した。
遺書は遺されていなかったがその状況から、自殺原因は「職務遂行の疎漏によって不審車両を逃したことに対する自責の念」、また「自身へのバッシングを苦にしたこと」であるとみられている。
一部では、ハウス食品事件における失態の”全責任”を負わされたともいわれ、それに抗議するための自殺であったという見方もある。
自殺現場は本部長公舎の庭であった。
(焼身自殺といえば実際、抑圧された者が行う究極の抗議手段としての側面を持つ)

尚、自殺した本部長はノンキャリアからの叩き上げであった。努力の人であり、真面目な人物であったのではと想像する。

 

同年8月12日
本部長自殺から5日後となるこの日、本事件で標的となった各食品会社へ犯人グループからの手紙が届く。
これには—、

「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」

これは事件すべてに対する終息宣言であり、これにて『グリコ・森永事件』が幕を閉じることを意味していた。
また犯人によると、この手紙は本部長への香典代わりということであった。

そして―、
犯人側からの終息宣言を受け、本事件の被害に遭った「ハウス食品」の社長・浦上 郁夫はこの日、東京から大阪へと向かった。同社の創業者で先代社長である亡き父・靖介の墓を訪ね、事件の終息
を報告するためである。
そして浦上は、「8月12日18時00分 東京国際空港(羽田空港)発 大阪国際空港(伊丹空港)行き」の飛行機に搭乗した。尚、このとき浦上は搭乗直前のロビーで、同機に搭乗する歌手の坂本 九と会釈を交わしている。2人は旧知の仲であった。

浦上を乗せた航空機は予定時刻より遅れて18時12分に離陸。18時56分、御巣鷹の尾根(群馬県)に墜落した。航空史上最悪の「日本航空123便墜落事故」、かの有名な『日航機墜落事故』である。
この事故で乗客乗員524人のうち520人が死亡。同乗の坂本 九とともに、浦上もこれに含まれていた。

高天原山(通称:御巣鷹)の尾根に墜落した123便

 

「ハウス食品工業株式会社(当時の名称)」2代目社長・浦上 郁夫―、
『グリコ・森永事件』に遭い、その終息宣言を受けた日に父の元へ報告に向かうも、未曾有の航空機墜落事故に遭う。

父・靖介の死去に伴い、28歳で社長就任。社長在任のまま47歳で死去。なんとも数奇な人生であった―。


パート5】に続く。

 

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