オウム真理教女性信者殺害事件 -1-

これはオウム真理教が起こした一連の事件に関する記事です。本記事では【第5のオウム事件】について言及しています。
本編単体でもお読みいただけますが「オウム事件シリーズ」となっているため、第1の事件から順にお読みいただいた方が事件関連の出来事や語句、人物など、より理解が深まります。

【第1のオウム事件】オウム真理教在家信者死亡事件

【第2のオウム事件】オウム真理教男性信者殺害事件

【第3のオウム事件】坂本堤弁護士一家殺害事件

【第4のオウム事件】オウム真理教国土利用計画法違反事件


 

“一部始終をみていた上祐は、なぜ2018年になるまで事件を公にしなかったのか”

 

『オウム真理教女性信者殺害事件』

1991年(平成3年)頃、オウム真理教内で発生した殺人事件。
教祖・麻原 彰晃をはじめとした教団上層部らにより、女性信者が殺害された。
教団内の殺人事件(粛清)としては2件目となる事件であり、過失致死事件(第1のオウム事件)も含めると、教団内で3人目の死者が出た事件となる。

尚、本事件は教団の隠蔽により、当時明るみにならなかったことで立件されていなかったが、事件から約27年後となる2018年7月11日、「週刊新潮」の報道により発覚した。そのため、オウム事件としてはとりわけ古いにも拘わらず、世間的な認知としては比較的新しい事件であり、オウムに対する世間の関心を再び集めたことで記憶に新しい。(2020年12月現在)

 

事件の解説

※以下は事件から長い年月を経て得た証言や伝聞情報に基づいているため、その正確性や中立性が不十分である可能性があります


1991年(平成3年)頃、オウム真理教の女性信者N(当時27歳)が麻原 彰晃らによって殺害された。
本事件の真相に繋がる手がかりとして、事件に関与した新実 智光と、事件を目撃した上祐 史浩の証言がある。しかし、これら2人の証言には大きく食い違う点が。
以下は、それぞれの証言である―。

 

新実の証言 (事件に関与)


1990年か1991年の冬頃、旧・上九一色村(山梨県)のサティアン(富士山総本部道場、第1サティアン、第4サティアン以外のいずれか)でNさんが教団資金の横領を疑われて麻原の部屋に呼び出された。そこには教団幹部らの面々(村井 秀夫、中川 智正、麻原の側近女性、そして上祐と新実自身)がいた。

そこで事実確認が行われたが、Nさん自身の証言は無視され、自白や確証のないまま麻原は彼女を”クロ”と判断。そして彼女に対する「ポア」の決定を下した。
麻原の命令を受けた新実や中川がその場でNさんの手足を押さえつけ、麻原が首を絞めて殺害
遺体は護摩壇で焼却し、骨は本栖湖に撒いた。

 

上祐の証言 (事件を目撃)


1991年の初め頃(冬頃)、Nさんが教団内の金銭トラブルによりスパイ容疑をかけられた。
そこでNさんは富士宮市(静岡県)の第1サティアン内音楽室へ呼び出された。ここに同席していたのは、「新実の証言」と同じ面々であった。

このとき麻原はNさんに対して「白状しろ!」と恫喝。これに彼女は恐怖心を抱いたのか(もしくは忠誠心からか)、一切身に覚えがない様子であったにも拘らず、泣きながら「思い出せない」と言って自身にかけられた疑いを100%否定しなかった。
自白を引き出せない尋問に業を煮やした麻原は、やがて「白状しないならポアする」と脅しかけた。しかしそれでもNさんが白状しないとみた麻原は、「私は言ったことはやるよ」と吐き捨て、新実や中川にNさんを押さえつけるよう指示。そしてNさんを押さえる中川が麻原に何かぼそっと尋ね、麻原がこれに頷くと、中川は退室した。
(筆者はこのとき中川が、毒性のある何らかの物質の名を言ったと推察)

教団幹部の1人であり、麻原の主治医である中川

 

ほどなくして中川が部屋に戻ってくると、その手には注射器が握られていた。
そして中川がNさんの左腕に注射、それと同時に新実が口や鼻を手で塞ぐと、彼女はすぐに動かなくなった。このときNさんの死亡は医師である中川が確認。
中川と新実がNさん殺害を実行している間、麻原はソファーに座ってそれを眺めていた
Nさんの遺体は村井らが運び出し、教団施設の中で焼却された。

この一件について麻原は、「彼女は魔女だった」と言って自身の犯行を正当化した。

 

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【2人の証言】 それぞれの信憑性について

ここまでお伝えしたように、新実と上祐の証言には食い違いがある。事件の発生時期や、事件が起きた経緯などはほぼ一致しているものの、「発生場所」、「Nさん殺害時の状況 (“麻原が直接手を下したか否か”)」が異なっている。

上祐によると―、
新実の証言は記者が直接訊いたり、書面を得るなどしたものではなく、第三者を介した伝聞情報とのこと。さらに、新実は本事件に関して警察当局には供述していないという。つまり、それは内輪で語られた昔話のような、朧(おぼろ)な回想であった可能性は否定できない。

新実は事件の発生が1990年であった可能性を示唆、そして発生場所を麻原の部屋(旧・上九一色村)と証言しているが、上祐によれば当時はまだ麻原の部屋はなかったという。
さらに、本事件を目撃していた女性幹部がこの年に別事件で拘留されていたことから、“本事件が1990年に発生した可能性はない“と上祐は断言している。

こうした新実の証言に対する上祐のコメントをみると―、
上祐の語る事件の詳細の方が、信憑性が高いように感じざるを得ない。そして事件に対する2人の証言を比較しても、上祐の証言の方がより具体性がある。
そしてまた、新実は事件に加担した「加害者」であり、自身を正当化するために事実をねじ曲げた可能性もある。実際、上祐は”新実がNさんの口や鼻を塞いだ”と言い、新実自身は”麻原がNさんの首を絞めた”と言っている。この部分における筆者の所感としても、麻原が自らNさんを絞殺したとは考えられない。なぜなら、麻原は直接的に殺人を犯さないからだ。

異なる2つの証言―、
信憑性が高いのは、上祐の方で間違いないだろう。

本事件が公になった後、会見を開いた上祐氏 (2018年)

 

殺害されたNさんについて

1963年生まれ。事件当時27歳。大阪府出身。
1988年に入信し、翌1989年に出家。事件当時、教団幹部の中の1人として、富士山総本部道場の経理部トップを務めていた。
ある一定のステージへ到達した出家信者のみに与えられるホーリーネームも持ち、それは「タイトラインドラーニ」であった。

事件後―、
信者の親族や脱会信者、警察当局が作成の「教団関係者の行方不明者リスト」にNさんは載っており、本事件が起きたとされる1991年には、Nさんと音信不通になった両親が教団に問い合わせをしている。ところがその際、教団からは「トラブルを起こして出ていった。その後は分からない」との説明を受けた。

1994年には母親が大阪府警に家出人捜索願を提出。さらに、被害対策弁護団の弁護士の元へ相談に行っている。このときNさんを知る現役信者が同席し、教団から突如姿を消したNさんが尚も行方不明である事実を知って驚くという一幕があった。
(このことから、教団内で起きた事件は関係者のみ知るところであり、本事件の犯行も教団内のごく一部の範囲で、秘密裏に行われていたことが分かる。そのため、末端信者らはオウム真理教の本当の恐ろしさを知らなかったと思われる)

その後、母親の相談を受けた弁護士は教団にNさんの安否の照会を要求。しかしこれを拒否される。そこで弁護士は人身保護請求に訴え出ることを母親に打診するも、母親はその申し出を断った。

この7年後となる2002年、母親は家庭裁判所にNさんの失踪宣告を申し立て、翌2003年にこれが認定される。

そしてそれから数年後―、
両親は真相を知ることなく相次いで亡くなった―。

 

 

本事件は真相がみえない事件であり、「生き証人」は上祐ただひとり。およそ27年前の事件であるが、ある種これは現在進行形。
しかしながら、様々な憶測や疑念を燻らせたまま、Nさんが殺害されたという事実だけを残して、このまま風化していくのだろうか―。(2020年12月)

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【人身保護請求】
法による正当な手続きによらず拘束されている者を保護しようとすること。
本事件においてこれが行われようとしていたのは、「Nさんの死亡を想定していなかった」もしくは「生死の確認をするため」であると考えられる。


本記事の本編はここで終わりですが、パート2のコラムをお読みいただいた方が「オウム事件シリーズ」をより深く理解することができます。
次なる【パート2】へ。

 

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