諏訪地方連続放火事件 -4-

これは『諏訪地方連続放火事件』に関する記事の【パート4です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

諏訪地方連続放火事件 -1-

諏訪地方連続放火事件 -2-

諏訪地方連続放火事件 -3-


 

逮捕後

逮捕後の取り調べでくまぇりは、連続放火23件(前出)のうち9件については、自身の犯行であることを認めた。(国道20号に大きな石やブロックを置いた交通妨害の件を含む)
くまぇりの供述の中に嘘があったのか否か知る術はない。そのため疑わしくはあるものの、23件の連続放火すべてがくまぇりの犯行であるとは断言できない。

 

犯行動機については―、

「邪魔だったから」(4月17日 資材置き場の放火について)

「燃やして嫌な過去を消し去りたかった」(5月11日 中学校の放火について)

「事件が報道されて、地元(諏訪市)が有名になるように感じて楽しかった」

「イライラしていた気持ちが晴れていくように感じた」

などと供述。
そこには”中学生時代の辛い思い出”や、”歪んだ地元愛”といった身勝手な犯行動機が垣間みえた。

尚、その時期は明らかになっていないが、くまぇりはパニック障害を発症している
また、この障害との因果関係の有無は分からないが―、
くまぇりは逮捕後、茅野警察署での勾留中の2007年1月5日、居房のトイレ内で自殺を図っている。
幸いこれは未遂に終わった。

 

裁判

2007年4月9日、長野地裁松本支部―、
峯 俊之裁判長は、「近隣住民を震撼させ、地域社会に与えた影響は重大」として、
くまぇり(平田 恵里香)に懲役10年を言い渡した(求刑 懲役13年)。
最終的に問われたその罪状は、「現住建造物等放火罪」「非現住建造物等放火罪」「建造物等以外放火罪」「住居侵入罪」「器物損壊罪」の5つであった。

この裁判の中で峯裁判長は、「極めて短絡的かつ自己中心的。酌量の余地はまったくない」と断罪。
その一方で、

「地域社会に与えた影響は極めて大きいが、被告人は精神的に幼く、それが招く問題行動に対して、周囲はこれまで適切な対応をしてこなかった。今後、被告人が更生する可能性は十分にある」

家庭環境に苦言を呈した上で、くまぇりに対する期待をのぞかせた。

 

そして峯裁判長は裁判の最後、くまぇりにこう諭す―、

「あなたはまだ若い。社会復帰してからの時間の方が長い。反省し、罪を償い、自分の生きる道を探してほしい」

これにくまぇりは、小さな声で「はい」と答えた。

 

この裁判でくまぇりの懲役10年確定した―。

 

刑務所入所後

務所に入ったくまえりは―、
「高卒認定試験(旧・大検)」に合格、そのほか「フォークリフト運転者」、「危険物取扱者」(国家資格)、「二級ボイラー技士」(国家資格)といった様々な資格を取得。また、それまで自身を苦しめていたパニック障害も克服した。

くまぇりは刑務所内で手記も書いており、これは月刊誌「創 (つくる)」(創出版)にて掲載された。
以下はその一部である―、

私は今迄何となく生きて来て、「向上心」なるものは無縁だったのですが、実はここへ来てもの凄く勉強熱心になりました。3年がかりで高卒認定(大検)を取ったり、フォークリフト運転や、危険物取扱者、2級ボイラー技士の資格を取得する事も出来ました。机にかじりついて受験生活をしたのも生まれて初めてでした。学校に行かなかった分を一気に取り戻した気分です。

ここでは全て独学で、教科書や参考書を自分で買ったり差し入れして貰って勉強しました。難しすぎてもう諦めよう、と思った時も何度もありましたが、ここまで来て諦めたら昔の弱い自分に戻ってしまう気がして自分の時間を削って必死で勉強し、ほとんどを高得点で合格しました。

今私は語学勉強をしています。もちろん独学です。そして仕事上では今私は人の上に立つ立場として沢山の人達をまとめ、指導しています。昔の私ならば、到底考えられない、ありえない事です。

 

この手記は入所8年目に書かれたものといわれている。
書かれているその内容からは、彼女の向上心が強く感じとれる。文も非常にしっかりとしており、”あのブログ”を書いていた同じ人物とは思えないくらいである。犯行時の彼女とはまるで別人のようだ。

懲役10年の判決が下った後、「刑務所で20代、人生おわりです」と彼女は関係者にこぼした。
あの頃の彼女にはいつか必ず来る、自らの未来が見えなかった。しかし8年の歳月を経た彼女には、近く訪れるその未来を生きていくための術や意思が生まれていた。

また、同じく「創」の中では、くまぇりの刑務所生活をリアルに描いたマンガが掲載されている。これは当然、くまぇりが描いている。

「創」に掲載された『くまぇりカフェ』

 

作中の”篠田さん”は「創」の編集長

 

『くまぇりカフェ』からは―、
「自らの罪に対する反省」、「人への感謝」、「人生の再出発への前向きな想い」が確かにみえる。
そしてなにより、”自分には応援してくれる人たちがたくさんいる”ということを、彼女自身が気付いた。実はこれがいちばん”人を変える力”になる。とはいえ、これは誰もが感じられるものではない。そういう意味では、彼女は非常に恵まれている。

彼女のマンガをみてお分かりいただけるように、彼女は絵が非常に上手い。そしてそれには、なんともいえない魅力がある。こう言ってはなんだが、まともに学校へ行っていなかったとは思えないほど、字も文章も上手である。もしかしたらこれは、刑務所生活の中で培ったものであるかもしれないが、筆者としては元々彼女が持っていたものではないかと感じている。

 

尚、『くまぇりカフェ』は現在でも創出版のウェブサイトから閲覧できる。これには300円(税込み)がかかるが、試し読みもできる。(2020年12月現在)

このように、自身が経験した刑務所生活を本や雑誌で綴るということは、いろんな人が行っている。しかし彼女のように、服役中にそれを発信するケースは珍しい。事実、マンガの初期には便箋の罫線が入っており、”このマンガが確かに刑務所で描かれた”というリアルを感じさせる。

くまぇりカフェでは、「短歌マンガ」や「獄中手記」もあり、絵だけでなく文の才能も窺うことができる。興味のある方は、ぜひ一度のぞいてみてほしい。

創出版HP 「くまぇりカフェ」コーナー

 

くまぇりは10年の刑期を務め、2016年出所した―。

 

その後

刑事の裏には民事もある

くまぇりが認めた9件の犯行による被害総額はおよそ1億1,000万円にも上るとみられ、その被害は甚大であった。とはいえ、本事件唯一の救いは死者が出なかったことである。
しかしながら、出火時に幼い子どもの逃げ惑う姿があったり、トラウマを抱えてしまった人もいる中で、こうした地域住民らによる訴訟に向けた動きもあったといわれている。10年の刑期を務めあげ、「刑事責任」というひとつの責任は果たしたかもしれないが、それだけで終わらないのが現実。民事上の問題も残されている。
一説によると、連続放火の被害者の中にヤクザがいたともいわれており、そのあたりの清算の必要があったとも。初公判の傍聴席には、いかにもな風体の人物がいたともいわれている。

 

くまぇりの実家の事業であるが―、
店は閉めたものの、旅館へ仕出しをして細々とやっているとのこと。近隣住民からは、「店を開けてもいいんじゃないか」という声もあったようであるが、多大な迷惑をかけた手前、家族としてはそうするわけにはいかないようだ。もう事件前のようにはいかず、裏方で生きていくほかないのかもしれない。おそらくこれは、くまぇり自身も例外ではない。

「与えられた刑はあと2年で終わりますが、だからって、償いはそれで終りではなく、一生をかけてするものだと思っています」(くまぇり獄中の手記より)―。

 

くまぇりの出所が近づく頃には、彼女の獄中記の販売を望む出版社が多かったとも。事実、「元犯罪者の自叙伝」は話題性が高く、人気のあるカテゴリー。また彼女の文才についても、一部では高い評価を得ていたようで、出所後には各出版社からのオファーがあると予想されていたが、実際はどうだったのか。

2年後に出所を控えたくまぇりは、その手記の中でこう述べている。

「もう、私のことはそっとしておいてください」

事件により、あれだけ世間からの注目を浴びていた彼女―、
しかし出所後の情報がまるでない様子をみると、世間はこの彼女の願いを尊重したのかもしれない。
一時は、”くまぇりは出所したら女優になりたがっている”というようなデマが流れ、それを真に受けて面白がる輩も多くいた。そもそも彼女の手記が「創」から公開されたのは、これを一刀両断するためだったという。

 

事件から約15年経ったいま―、
“一家が民事上の責任を果たしたのか”、”事業はどうなったのか”、などということは知る術もなく、また詮索する必要もない。

 

平田 恵里香というひとりの女性、ひとりの人間

“有名になりたい”、”注目を浴びたい”―、
こうした欲望に駆動され、自ら放火を繰り返し、それを自身のブログで報告。マッチポンプな犯行を行った「とんでもない女」という人物像で語られるくまぇり。
しかしその一方で、「多数派に順応できない自分」や、それによる「いじめ」。仕事がちで両親のいない家庭、そこにある「孤独」。

学校では孤独。家庭でも孤独。相手をしてくれるのは、悪い仲間たちだけ。きっと彼女はいつだって疎外感に苛まれていた。その裏返しとして、”人々から相手にされる場所” = 「芸能界」への憧れを募らせたのだと思う。
今でこそ”マイノリティ(少数派)”という言葉が一般化し、”ダイバーシティ”などと言われ、「多様性の時代」となりつつある。とはいえ、少数派は少数派。その数で多数派に抑圧されてしまう。これが今からおよそ15年前の2006年当時となれば、尚更のこと。彼女は生きづらさを感じていたはずだ。
だからといってこのような事件を起こしてよいという道理にはならないが、事件の背景にはこうした問題が根底にあるということを知っておいてほしい。

 

ここでそんな彼女の知られざる一面を紹介したい。

先述のとおり、くまぇりは逮捕後、留置場で自殺を図っている。
2007年1月5日16時頃、ジャージの上着を首に巻き付けた状態でぐったりするくまぇりを警察職員が発見。このとき彼女は意識のない状態であり、すぐに病院へ搬送され、心肺停止状態でICU(集中治療室)へ。それから3日間は昏睡状態で生死の境を彷徨った。

くまぇりが居房内のトイレに入った後―、
しばらく物音がないことを不審に思った警察職員が声をかけるも、応答なし。そこで居房内に入り、トイレを確認したことで最悪の事態は免れた。
(留置場は各居房内にトイレがあるが、これはガラス張りになっており、収監者がトイレ内にいることが外部から確認できるようになっている)

くまぇりはその後の手記で、「もう二度とやりませんよ。あんな苦しくて、いたい事。もういやです」と記している。
そしてまた、この警察職員とのエピソードをマンガにしている。

 

出所後、彼女はこの元警察職員と再会したのだろうか―。

 

おわりに

判決後、くまぇりの父親はこう述べた―、

「懲役10年と聞いた瞬間、心臓にナイフが突き刺されたような気持ちになった。彼女が生まれ変わって出所したとき、新たな誕生日として一緒に祝いたい」

自分の娘がこれほどの重大な罪を犯しておきながら、このコメントである。
本人は真っ当なコメントをしたと思っているのか知らないが、被害者・地域の方々への謝罪と反省の言葉が出てこないことをみても、親心だけが先行して当事者意識がまるで感じられない。
なにより、過去に自分の娘が包丁で人を刺したのにも拘らず、“心臓にナイフが突き刺されたような気持ちになった”とは―。
本事件を引き起こした娘のパーソナリティーを形成したのは両親の責任であり、父親はその一翼。そうした意識がまったくみられない。
尚、くまぇりが夫を刺す事件を起こした時、父親は不良仲間の家へ「お宅の娘と付き合っていたから、うちの娘がこんなことをするようになったんだ!」と怒鳴り込んだともいわれている。

これを書いている2020年12月現在―、
くまぇりは既に出所している。10年という長い服役ともなると、家族から離縁されるケースは少なくない。ところが彼女は家族との関係も良好であるとのことで、出所後は家族の元へ帰ることができたのだろう。つくづく彼女は恵まれている。
10年という長い贖罪を経た彼女の中に、確かな「自律」があることを願う。そしてそうであるならば、それからの日々の中で、どうか父親の”愛情”に毒されないようにとも願う。

 

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)がごく当たり前となった現代、「いいね!」を渇望する人たちをよくみかける。
本事件は、承認欲求と自己顕示欲の辿り着く先が犯罪となった事件、そしてその黎明ともいえるもので、SNSに浸かる現代人も他人事ではない。

 

逮捕前―、
東京都内の芸能プロダクションに送られたオーディションの応募用紙・PR欄には、

「自分の持っている花を大きく咲かせてみたい」

などと書かれていた。

あの頃みていた花とはきっと違う。しかしその花をどうか咲かせてほしい。夢は何度でも変わってよいのだから。
辛辣な言葉も並べたが、彼女を応援する意をこの記事に代えて、この文
を締めくくりたい。

オラクルベリー・ズボンスキ(小野 天平)

 

『裁判判例と未解決事件データベース』の記事は、”可能な限りリアルを追求する”というコンセプトに基づいて書かれています。そのため、これまで「事件に関係する物件」の住所は公開してきました。
しかし今回、くまぇりの実家住所の公開は差し控えさせていただきます。それは彼女自身が刑期を終えて新たな人生を歩みだしていること、そして恐らくまだそこに一家がお住まいであること、こうしたことが理由です。
事件ライターとして、事件の記事を書くことは犯人に対する「糾弾」の意味もありますが、本記事のように「応援」の意味もあります。彼女は死刑囚ではなく、未来ある”元受刑者”です。

“「事件の本質」をみてほしい”、本コンテンツの記事はその思いで書かれています。