オカムラ鉄工乗っ取り事件 -1-

これはオウム真理教が起こした一連の事件に関する記事です。本記事では【第6のオウム事件】について言及しています。
本編単体でもお読みいただけますが「オウム事件シリーズ」となっているため、第1の事件から順にお読みいただいた方が事件関連の出来事や語句、人物など、より理解が深まります。

 

【第1のオウム事件】オウム真理教在家信者死亡事件

【第2のオウム事件】オウム真理教男性信者殺害事件

【第3のオウム事件】坂本堤弁護士一家殺害事件

【第4のオウム事件】オウム真理教国土利用計画法違反事件

【第5のオウム事件】オウム真理教女性信者殺害事件

 

[本記事で登場するすべてのオウム関係者について]
各人の教団内での肩書きは過去のものであり、すべてに「元」が付きます。便宜上、そのように表記しておりませんが、その点をお含みおきください。


 

“教団にすれば、それはまさに「カモがネギを背負ってきた」”

 

『オカムラ鉄工乗っ取り事件』の概要

1992年(平成4年)、オウム真理教によって起こされた企業乗っ取り事件。その被害に遭ったのは、油圧シリンダーの製造を行っていた「オカムラ鉄工株式会社」。

この一件で教団教祖の麻原 彰晃が社長に就任したことにより、従業員の実に9割が退職するという異例の事態に陥る。またこれと入れ替わるようにしてオウム信者らが会社に入るほか、前社長が軟禁されるなど、徹底的な”血の入れ替え”が行われた。
結果、この乗っ取りによってオカムラ鉄工所有であった工作機械が奪われ、これが自動小銃の製造に利用されることに。

本事件は―、
立件されなかったこと、死傷者が出なかったことで他のオウム事件に埋もれがちであるが、教団の武装化に大きく加担し、後のさらなるオウム事件に繋がった事件である。また、ともすれば教団の企てた「国家転覆計画」「武力革命」の序章となり得たことから、決して軽視してはならない重大事件のひとつといえる

“利用できるものは骨になるまで利用する”という、オウムの恐ろしさを再認識させるような事件―、
それが『オカムラ鉄工乗っ取り事件』である。

 

事件の解説

本事件の主役となる「オカムラ鉄工」は、石川県能美郡寺井町(現・能美市)に本社を置く、従業員130名ほどの会社であった。
1992年の事件当時、オカムラ鉄工は資金繰りに奔走。銀行の追加融資を受けるなどしながら、再建の道を模索している中にあった。そしてあるとき、オウムの在家信者であったオカムラ鉄工の社長・岡村 博男さん(当時48歳)は、オウム真理教の教祖・麻原にこれを相談。すると麻原は、「2ヶ月で無借金経営にまで立て直す」と豪語した

その結果、同年9月14日麻原がオカムラ鉄工の社長に就任。それはオカムラ鉄工に対する「介入」を経て、やがて「社長入れ替え」という腰を据える形でオウムが会社に入り込んでいく異様な光景であった。

こうして麻原への相談が会社崩壊のきっかけとなってしまったわけであるが、実はオカムラ鉄工とオウムの関係は古い。
教団の人間がオカムラ鉄工に初めて訪問したのは、事件から約5年前の1987年12月4日
このとき尋ねたのは、麻原と教団幹部の2人、村井 秀夫石井 久子であった。これは岡村社長の日記から明らかになっている―。

 

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石井 久子

オウム真理教幹部のひとり。最終ステージは正大師。ホーリーネームは「マザー・シャクティー・ケイマ」。(後に「マハー・ケイマ」へ変更)
省庁制が採用されると、大蔵省大臣を務めた。麻原の妻子以外では、
女性信者の中での地位が最も高く、いわば”女性信者のトップ”であった。

 

短大を卒業後、「日産火災海上保険 (現・損害保険ジャパン = 損保ジャパン)」に入社。このとき同僚であった飯田エリ子(後の教団幹部のひとり)に誘われ、麻原彰晃のヨーガ教室「鳳凰慶林館」を訪ねる。
1984年に入信。
その後、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」が発足して出家制度ができるに伴い、1986年6月に退職。そして出家した。

石井の教団内での管理番号は「00001」であり、飯田と同様に最古参メンバーとして挙げられるほか、教団の中でもかなり早い段階で「正大師」にまで登りつめた出世頭であった。
尚、石井のこのスピード出世には、”麻原のタイプ”に当てはまったことが極めて大きい。おそらく石井は麻原にとって”ドストライク”であったと思われる。実際、石井は麻原の愛人(ダーキニー)のひとりとなり、その
結果、麻原との間に双子を含む3人の子どもをもうけることになる。

 

1989年の「坂本堤弁護士一家殺害事件」では、遺体の処理に加担した。


みるみるうちにオウムに侵食されていくオカムラ鉄工。【パート2】では、その一部始終を時系列で振り返る。

 

【オウム真理教の階級】
教団内では「ステージ」と呼ばれる。オウム初期ではシンプルな階層構造であったが、次第に細分化されていった。
かなる変遷の中でも最上位の『尊師』は絶対的な存在であり、「尊師 = 麻原」と不動のものであった。

※上記ほど上位。同ステージ内では右記ほど上位。

[初期]
・尊師 (麻原 彰晃)
・大師
・スワミ
・シッシャ

[1988年頃]
・尊師
・大師 (クンダリニー ⇒ ジュニアーナ ⇒ 大乗 ⇒ 報身 ⇒ コーザル ⇒ 最終解脱者)
・スワミ
・シッシャ (ブフー ⇒ ブハー ⇒ スワハ ⇒ マハー ⇒ ジャナー ⇒ タパー)

※ステージごとにクルタ(教団の衣装)の色が異なった

[1990年1月]
・尊師
・大師 (正師 ⇒ 正悟師 ⇒ 正大師 ⇒ 大報師 ⇒ 大法師 ⇒ 天人師)
・スワミ (行者 ⇒ 大行者 ⇒ 小師 ⇒ 師)
・シッシャ (小学者 ⇒ 大学者)

[1990年7月頃]
・尊師
・正大師
・正悟師
・師
・スワミ
・シャモン

[1993年頃]
・尊師
・正大師
・正悟師 (正悟師 ⇒ 正悟師長補 ⇒ 正悟師長)
・師 (小師 ⇒ 師 ⇒ 師長 ⇒ 師長補 ⇒ 師)
・師補 (スワミ)
・サマナ (サマナ見習い ⇒ サマナ ⇒ サマナ長)

[1994年6月頃] ※それぞれの数字は、警察発表で明らかになった各ステージの人数 (1994年9月時点)
・尊師
・正報師 (麻原の四女・松本 聡香)
・正大師 4名
・正悟師長 (悟長)
・正悟師長補 (悟長補)
・正悟師 (悟師) 8名
菩薩師長/愛欲天師長 (菩長/愛長) 菩薩師長13名/愛欲天師長9名
菩薩師長補/愛欲天師長補 (菩長補/愛長補) 菩薩師長補28名/愛欲天師長補17名
菩薩師/愛欲天師 (菩師/愛師) 菩薩師67名/愛欲天師58名
・小師 (スワミ)
・師補 (スワミ補)
・サマナ長
・沙門 (サマナ) 311名
・見習い (サマナ見習い) 345名
・準サマナ

「師」(オレンジ色)は、『菩薩グループ』と『愛欲天グループ』に分かれている。
これらは同格とされており、それぞれが独立している。そのため、双方とも相手グループには指示することができなかった。

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コラム 【尊師の愛人たち】

オウム真理教の絶対的存在、「尊師」の麻原には多くの愛人がいた。
教団内でこれらの女性たちは『ダーキニー』と呼ばれていたが、これは”愛人”という直接的な表現を避けるための、単なる体のいい呼称にしか過ぎない。

 

オウム真理教には、宗教然とした様々な戒律があった。
その中のひとつに「不邪淫 (ふじゃいん)」がある。これは配偶者・恋人以外との性行為、またオナニーを禁ずるというもの。さらには、夫婦であっても出家すれば別々に住むことを強いられた。
つまるところ、実質的にはセックス及びオナニーは禁じられており、これは一切の性欲の発散を許さないものであった。

ちなみに、不邪淫は仏教の五戒(信者が守るべきこと)の中のひとつにある。つまりオウムはそれを真似しただけ。いうなれば、オウム真理教は仏教のコピーにしか過ぎず(コピーにすらなっていないが)、宗教面したカルトである。
そのカルト宗教の指導者・麻原は、
信者らにはこの不邪淫をはじめとした様々な戒律を強要しながら、自身は戒律もクソもない俗欲に塗れた生活を送っていた。しかしそれは麻原が「最終解脱者」であり、“戒律をも超越する存在であるから許される”という理屈。さらには、“大奥制度を確立した徳川家光の生まれ変わりであるため、それに倣っても構わない”というトンデモな理屈に基づいている。
挙句の果てには—、

「若い女性を高い次元に導いてやるために、左道タントライニシエーション(性行為)を最終解脱者の義務として施さなければならない」

などという論法を展開した。あれもこれも、麻原の得意な「正当化」である。

 

教団関係者の証言によると、麻原の愛人は同時期に最大33人以上いたといわれ、延べでは100人以上に及ぶとみられる。これらの女性信者は第1サティアン第2サティアンに住んでいた。
尚、麻原の愛人となった女性信者には、ホーリーネームに「ダーキニー」が含まれることが多かったといわれている。これは教団内でも男女交際があったことから、マーキングの目的があったと筆者は推察する。
また、愛人らがホーリーネームを持っていた事実をみると、やはり彼女らは麻原に優遇されていたと考えるのが自然である。(ホーリーネームはある一定以上のステージに到達した者のみに授けられる)

こうした愛人らは、麻原の性的欲求が高まると電話で呼びつけられ、大浴場や40畳ほどの大部屋で麻原と性行為をした。麻原1人に対し、女性複数人の性行為が日常的に行われていた。

ちなみに、正大師は一夫多妻が、正悟師は1人の妻を持つことが認められたといわれているが、そもそも日本では一夫一妻制である―。

 

【麻原の愛人】選定方法

1.写真選考

オウム真理教では入信時に、入信希望者の顔写真を撮るという決まりがあった。
この
写真撮影は書類作成などの事務的な目的ではなく、麻原が自分好みの女性を選定するためだけに行われていた。そのため女性が入信すると、その顔写真は逐一麻原の元へ届けられた。
この「写真選考」で麻原の目に留まると、その女性は再び写真撮影されることになる。麻原はその際、撮影技術を持つカメラマン(信者)に撮影させており、気に入った女性に対してはクオリティの高い写真を欲しがった。

この再撮影の際には—、
「顔写真」「ヌード写真」を撮らせ、こうした写真を麻原はコレクションしていたのではないかと筆者は推察している。

 

2.面談

写真選考に通過した女性は本部に呼び出され、麻原と面談した。この際には、教団ナンバー2の村井 秀夫が同席した。

 

3.性行為テスト

面談を経て”合格”となった女性は、麻原による「左道タントライニシエーション (ただのセックス)」が行われた。この時点で処女であることが確認されると、”晴れて”麻原の愛人となることができた。

 

麻原の性的嗜好

麻原はセックス経験のない女性と行うことに、性的興奮を覚えるという性癖を持っていた。そのため、必然的に麻原の性的対象となるのは主に10代であり、幹部の人間らは「未成年の美人を集めろ」と命令されていた。麻原は15歳から25歳までの複数女性らと、修行と称して性行為を行った。

また、麻原はロングヘアの女性を好んだ。そのため、麻原の愛人になりたくない女性信者は髪を短くしていた。

尚、麻原は自身の性器が小さいことにコンプレックスを抱いていたが、「小さい方が優れている」などという自説を末端信者(サマナ)らに”説法”していた。

 

【麻原の愛人】特権

・運転手付きの車が用意される
・作りたての料理が食べられる
・私服の購入と着用が認められる
・麻原の故郷である熊本の名産品 メロンの進呈

麻原の愛人らはこのようにして優遇されていた。

 

麻原は妻以外の女性4人に子どもを産ませたが、その数は実に15人。

 

“なんちゃって仏教”の指導者・麻原 彰晃―、
崇高な仏教僧とはほど遠く、この男のどこに求心力があったのか、筆者には到底理解ができない。


パート2】へ

 

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