オカムラ鉄工乗っ取り事件 -2-

これは『オカムラ鉄工乗っ取り事件』に関する記事の【パート2です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

オカムラ鉄工乗っ取り事件 -1-


 

オウム真理教の在家信者であった「オカムラ鉄工」の社長・岡村 博男さん。

行き詰まる資金繰り―、
そんな中、”救済”を求めて会社経営の悩みを教祖・麻原へ相談。しかし
結果として、これが会社崩壊を招くことに。1992年のことであった。

事件から遡ること約5年前の1987年―、
この年の12月4日、
教団の人間がオカムラ鉄工に初めて訪問した。このとき尋ねたのは、麻原と教団最高幹部の2人、村井 秀夫と石井 久子。

それは事件の5年も前から、”教団のトップ3″がオカムラ鉄工に目を付けていたということなのか―。

 

事件の解説

事件の5年前となる1987年―、

教団のオカムラ鉄工初訪問時、その中にいた村井はかつての勤め先「神戸製鋼所 (通称:神戸製鋼、KOBELCO)」の名刺を差し出し、神戸製鋼社員を装った。

「本日は会社経営の勉強させていただくために伺いました」

そう言って工場内部を視察して帰った。
(この一幕から、このとき岡村社長は村井のことを知らなかったことが窺える。そのため、この時点で岡村社長はまだオウム信者ではなかったことが考えられる)

 

そしてそれから2年後(1989年)のある日―、
岡村社長は教団幹部の大内 利裕から、ひとりの女性オウム信者の就職相談を持ちかけられ、これを引き受ける。この女性信者(以下:S)は石川県の金沢支部に在籍していた。

その後、Sはオカムラ鉄工の関連会社「オカムラスプロケット」に入社し、事業部に配属される。ここでの主な仕事は製品の出荷であった。
尚、この時点で岡村社長はオウム信者であり、以下社員の中ではSのみが信者であった。そのためこのSが採用されたのは、教団からの斡旋、また社長自身がオウム信者であったことで、Sに対する便宜が図られたのは言うまでもない。

当時、Sはオカムラ鉄工本社のある石川県能美郡寺井町に住んでおり、毎日仕事が終わると金沢市京町のオウム金沢道場へ通っていた。車でも片道30分ほどかかる距離を、Sは自転車で往復していた。

Sの住む能美市とオウム道場のある金沢市の位置関係

 

こうして岡村社長の会社に就職したSであったが―、
会社に入ると、働きながら工場内を調査。そしてそれを教団に報告していた。要するに、Sは教団が送り込んだスパイであった。
(「村井が神戸製鉄社員を装って工場内を視察したこと」、そして「Sを送り込んだこと」。これらは乗っ取りの目的というよりは、銃器密造のための技術やヒントを得るための目的であったと筆者は推察している)

このように、オカムラ鉄工とオウムの関係は古く、本事件はそれが起きる数年前から燻っていたというわけである―。

 

Sの入社後も、岡村社長と教団の関係は続いていき―、
事件の年となる1992年ある日、岡村社長は会社の経営について麻原に相談を持ちかける。このとき麻原は、「2ヶ月で無借金経営にする」と豪語。岡村社長は麻原のこの言葉を真に受けてしまったのか、これをきっかけに麻原がオカムラ鉄工の経営に介入することとなってしまった。

教団の経営介入―、
麻原は手はじめに、新製品の小型焼却炉「ファイナルクリーナー勝利者」の
開発を持ちかけ、これに1億円以上を投じさせた。しかし、業界を知らない素人、会社経営の素人である麻原のすることは、会社の資金繰りを余計に悪化させた。
“2ヶ月で無借金経営”の大口を叩いた麻原であったが、介入していきなり会社をひっ迫させる結果をもたらしたのだった。

 

同年4月11日、麻原は「京セラを超える会社を作る会」と称した講習会を行う。これは京都で開かれた。
(『京セラ』は京都市に本社を置くが、麻原はこれを意識して「京セラを超える~」を京都で行ったと筆者は考える)

この講習会の中では教団幹部の大内 利裕による、

「スーパービジョンという商品を開発する予定なので、3年でオカムラ鉄工は東芝のような会社になるでしょう」

などという発言も飛び出す始末。やはりここでも理想・妄想だけが独り歩きし、実態はまるで伴わなった。
この講習会に参加した人物の証言によれば、

「その中身はオウムが行うセミナーで話される内容そのもの。”先手必勝”だとか、”防御は最大の攻撃”だとか、会社経営では何の役にも立たない精神論。ただの安っぽい説法だった」

 

こうした教団の支離滅裂な講習会を見かね、岡村社長が苦言を呈すると大内は―、

「それならば尊師は手を引きます。岡村さんは信用できない」

などと言って強気に出た。

結局、この「京セラを超える会社を作る会」は、6月18日に開かれた第4回で終了した。

 

6月23日、麻原は岡村社長を第2サティアンに呼び出す。
その要件とは、製造が遅れていた『ファイナルクリーナー勝利者』についてであった。このとき麻原は、「オカムラにはこの程度の技術しかないのか。我々で造るから、設備をここへ持ってきなさい」と岡村社長を責め立てたが、こうしてオカムラ鉄工に難癖をつけることは、設備を移す(奪う)ための口実であった。
そもそも、
ファイナルクリーナーの製造作業はオカムラ鉄工とオウムで分担されており、オカムラ鉄工はこのとき既に自分たちが担当する熱交換器やバグフィルターなど周辺機器の製造は完了していた。一方、オウム側は焼却炉部分の製造を担当していたが、これが難航していた。
この状況を目の当たりにした岡村社長によれば、「オウム側の人間では、設計はできても製造は不可能だった」という。結局、ファイナルクリーナーの製造は中断された。
(尚、麻原はこの年の5月にファイナルクリーナーの特許出願を本名の「松本 智津夫」名義で行っていた)

こうした『製造の中断』や『製品独占の画策』により、岡村社長は麻原に不信感を抱きはじめる。そんな中、オカムラ鉄工を悲劇が襲う―。

 

7月31日、取引先であった機械部品販売会社が倒産。これにより、オカムラ鉄工は3億2,000万円の不良債権を抱えることに。
そしてその翌日、岡村社長は第2サティアンへ訪ね、麻原に再び相談。すると麻原は、「これを使いなさい」と言って現金4,000万円の入ったリュックサックを差し出した。

 

8月、麻原は岡村社長に、「現金で20億円持っていくから、銀行の支援は受けないように」と釘をさす。しかしその陰で麻原は会社のメインバンクに対し、「教団の資産すべてを担保にする」という条件で15億円の融資を申し込んでいた。ところがこれが明るみになり、「オカムラ鉄工」とカルト教団「オウム真理教」の関係が世間に知れ渡る結果を招いてしまう。

オウム真理教国土利用計画法違反事件」で生じた熊本の地元住民たちとの軋轢、「坂本堤弁護士一家殺害事件」の関与を疑われ、定着した”反社会的”、”危険な集団”という共通認識。こうした負のイメージが付きまとう教団に対し、銀行側は融資を見送る決定を下した。

 

8月某日、教団の公認会計士がオカムラ鉄工に乗り込み、会社の資産状況を調査。さらには、教団幹部の大内 利裕、その妹の大内 早苗、そして飯田 エリ子がオカムラ鉄工の社員を入信させるために会社を訪ねた。
このとき大内 利裕は岡村社長に向かって、「社員全員がオウムに入らなければ、この会社は助けられない」と脅した。

 

8月26日、岡村社長は会社幹部に事情を説明。
そして翌日、会社近くの寺井町福祉会館に全社員を集め、入信の説明会を開く。

[入信説明会の様子]
教団幹部の上祐と並ぶ岡村社長。暗い表情をみせている。

 

傍からみれば、教団のやっていることがおかしいのは明らか。そして、それ以上の教団との関りは会社存続を大きく揺るがす。それは岡村社長も当然分っていたことだった。しかし、銀行からの融資を絶たれ、このとき頼れるものはオウムのみ。そうなれば、教団の言うことに従うほかなかった。

この入信説明会を開いたことで、オカムラ鉄工では離職する社員が続出した。

 

そして9月13日―、
麻原は第2サティアンで会合を開き、自らがオカムラ鉄工の社長に就任することを宣言。これは麻原が勝手に決めたことであり、このことに対する岡村社長との事前の話し合いはなかった。その上、麻原の一方的な社長就任は、この日の晩に岡村社長に伝えられた。
事前の話し合いもなく、また事後報告。岡村社長にしてみれば、それはまさに青天の霹靂(へきれき)であった。

9月14日、この日こそが悪夢のはじまり。麻原がオカムラ鉄工の社長に就任した
この日、呼び出された岡村前社長(以下:岡村さん)は、
教団幹部の新実 智光からこんなことを言われている。

「2ヶ月でオカムラ鉄工を無借金経営にして返します。何かあれば尊師が責任を取りますから。岡村さんは副社長として社長を支えてください」

そして新実と教団の公認会計士らが岡村さんを取り囲み、「これに判を押してください」と書類を差し出す。この書類とは、『オカムラ鉄工を含む4つのグループ会社の株式を、岡村一族から麻原に譲渡する』という内容のものであった。尚、この文面には”岡村さんが麻原に会社経営の交代を依頼した”という旨が書かれていた。
ここで新実はさらに、「これから株主総会を開きます」と勝手に宣言。突然テープを回して録音、また写真を撮ってその様子を記録しはじめた。

この一連の様子は極めて異様。岡村さんは一切の考える時間を与えられず、オウム幹部らに囲まれて威圧されるばかり。こうして社長交代の手続きは、岡村さんに有無を言わせない状況の中で着々と進められていった。

 

9月16日15時頃、麻原が信者らを率いてオカムラ鉄工の工場(能美市)に訪れる。総勢60~70人、一行はバス数台でやってきた。この中には石井 久子もいた。

それから麻原は建物内に入ると、全社員を集めて「オカムラ鉄工は倒産した」と伝えた。しかし、実際にはこの時点で倒産はしていなかった。
さらにこの日、経理室で業務に当たっていた岡村さんの妻を、新実が「奥さん、ちょっと来てください」と室外へ呼び出す。その間に教団公認会計士らが部屋を占拠。そして岡村さんの妻は、部屋を占拠した教団公認会計士らに「もうこの部屋には入らないでください」と言われ、その後は経理室に入ることは許されなくなった。

岡村さんの妻は「常務取締役」兼「経理部長」であり、この経理室内に置かれた金庫の前に自身の机があった。まるで金庫番のように、日頃金庫の前で仕事をしていた岡村さんの妻。それもそのはずで、この金庫の中には会社と個人の実印が入っていた。

怒涛の社長交代劇で、突如として社長の座を奪われた岡村さんであったが、”会社の実印さえあればなんとかなる”と考えていた。しかし、こうした重要なものが社長室ではなく、経理室に在るということを教団側は把握しており、そこを占拠。これは事実上の、会社実印の奪取であり、これにて岡村さんの希望はすべて絶たれてしまった。
尚、岡村さんはこの頃、教団によって軟禁状態にあった。

こうした社内の混乱をみて、従業員たちの間にも動揺が広がる。そのため、この時点でほとんどの社員は退職を決意していたが、その誰もが”12月まで何とか堪えて冬のボーナスを貰ってから辞めよう”と考えていた。ところが世間では、このときすでに「オカムラ鉄工 = オウムの会社」という認識が定着。それによって、オカムラ工業の社員であるというだけで浴びせられる心ない言葉―、

「お前はオウム信者になったのか」

「結婚に差し支える」

オウムとは全く関係のない自分らに向けられた世間の冷たい目は、非常に耐えがたいものであった。

 

そしてこの日を境に―、
社内では麻原のポスターが貼られるほか、「尊師マーチ」をはじめとしたオウムソングが流れるなど、オカムラ鉄工の本格的なオウム化が進んでいった。
こうしたことで、”12月いっぱいまでは頑張る”と言っていたほとんどの社員らは早々に退職。麻原の社長就任(9月14日)からまだ間もない10月2日時点で、130人ほどいた既存の社員は実に10人ほどしか残っていなかった。
この既存社員の大量離職は、単純に人手不足の問題だけではなく、「知識や技術を持つ人員の欠乏
」という会社の財産を喪失させた。これにより、会社は大幅な納期遅れを余儀なくされた。
「オウムの関与」だけでも十分その信頼を損なっていたオカムラ鉄工は、「納期遅れ」でさらにその信頼を失墜させていった―。

 

結局―、
麻原は2ヶ月で無借金経営にするどころか、社長就任2か月目となる10月15日、オカムラ鉄工を倒産させた。すると麻原は自身を社長、教団ナンバー2の村井を常務取締役とし、さらには従業員のほとんど(延べ約80人)をオウム信者で固め、『株式会社 ヴァジラ・アヌッタラ ヒタ アビヴッディ精密機器工業』の名で新会社をスタート。これにて、教団によるオカムラ鉄工の乗っ取りは完了。
こうしてひとつの会社が消え、望まれぬ会社が誕生した。

麻原新社長就任会見の様子

 

オカムラ鉄工の倒産に対し言及する麻原、思わずニヤける。その心中は、乗っ取り成功の喜びで満ちていた。

 

後には、この会社事務所は「オウム真理教南青山総本部 (東京都)」と同じビル内に移転された。

南青山ビルに入居するオウム関連会社の看板。「ヴァジラ・アヌッタラ ヒタ アビヴッディ精密機器工業」の事務所は4階にあった。(東京,1994年10月撮影)

 

1993年に入ると―
教団は会社の工場にあった工作機械をサティアンや富士清流精舎に運び込む。言わずもがな、これはオカムラ鉄工所有のものである。
こうしてオカムラ鉄工の財産が運び出され、教団が去った後のオカムラ鉄工跡地は空っぽになり、ゴミだけが散らかった廃墟となった。

後に教団は、こうしてオカムラ鉄工から奪った工作機械を使い、自らの拠点である富士山の麓(山梨県)で秘密裏に自動小銃を製造をはじめる。

 

一方、岡村さんは―、
この年の2月末、弁護士を通じてオウム真理教へ脱会届を提出。それとともに、債権者や元社員、親類宅などを詫びて回った。
債権者からは、「今さら返してもらおうとは思わない。もう顔をみせるな」と冷たい言葉を浴びせられたという。

1993年5月26日の「朝日新聞」夕刊より

 

また元社員らは―、

「社長はとんでもないことをしてくれた」

そのほとんどは再就職を果たしたものの、突然不況の真っただ中に放り出されたことに対して、”許せない”という感情を抱く者ばかりであった。

 

失った「会社」、「金」、「人」、「信用」―、
残ったのは、26億円に及ぶ負債。
こうしてすべてを失った岡村さんはその後、賃貸住宅に暮らしながら土木作業や引っ越しのアルバイトで生活費を稼ぐ日々を送ることに。

 

「途方に暮れた家族が泣いている。自分の罪深さを自覚するばかり」

一連の出来事を振り返り、岡村さんはそう言葉にした。

 

『オカムラ鉄工乗っ取り事件』は、カルトの恐ろしさ、そして洗脳の恐ろしさを世に知らしめた事件となった―。

 

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【大内 利裕
:おおうち としやす
オウム真理教幹部のひとり。最終ステージは「正悟師」。ホーリーネームは「プンナ・マンターニプッタ」。
大阪支部長、ニューヨーク支部長などを歴任。1992年の9月(「オカムラ鉄工乗っ取り事件」の最中)に開設されたモスクワ支部の立ち上げに尽力した。モスクワ支部では副支部長を務めたが、支部長を務めていた上役の上祐 史浩とは仲が悪かった。
教祖である麻原が1955年生まれであるのに対し、大内は1952年生まれ。教団幹部の中でも数少ない麻原より年上の人物であった。

 

福島県出身。東京都内の鍼灸専門学校卒業後、鍼灸師となる。
あるとき、『平家物語』の教え「盛者必衰」「諸行無常」などに強い影響を受け、そこから精神世界に食指が動く。そうした中で、多くの霊能者と呼ばれる人物らに接触するも、どれも安っぽい印象しか残らない―、その現実に大内は半ば失望していた。
ところが1985年12月、オカルト情報誌『ムー』の中で麻原が書いた記事を読んだことで、大内は麻原に興味を抱く。これがきっかけとなり、やがてオウム真理教の前身「オウム神仙の会」に入信。そこで神秘体験をしたことで、オウムの修行に没入した。

「先生(麻原)に大恋愛をしてしまった。好きで好きでしょうがなくなってしまった」と語るほど、大内はマインドコントロールに陶酔していた。

1989年の「オウム真理教男性信者殺害事件」に関与。妹に同じく教団幹部の大内 早苗がいる。

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【大内 早苗】
:おおうち さなえ
1957年7月2日生まれ。
大内 利裕の妹であり、自身も兄と同様に教団幹部であった。最終ステージは「師長」。ホーリーネームは「シャンティ―」。(後に「ソーナー」へ変更)
福岡支部長、名古屋支部長などを歴任。省庁制が採用されてからは、教団の非合法武力部隊「白い愛の戦士」を統括する『新信徒庁長官』となった。
オウム真理教では最古参となる女性幹部。

 

福島市内の私立高校を卒業後、被服専門学校へ進む。これを卒業すると、医療事務員やエステティシャンとして働いていた。
そうした中、兄である大内 利裕の勧めでオウム真理教の前身「オウム神仙の会」に入信(1986年初頭)。そしてその年の12月に出家した。
教団初期からの幹部であったものの、その出世は遅々とし、次々と後輩らに追い越されていった。その理由は、薬物による修行に反対していたためといわれている。

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【飯田 エリ子】
1961年1月18日生まれ。神奈川県出身。
オウム真理教幹部であり、教団最古参メンバーのひとり。最終ステージは「正悟師」。ホーリーネームは「ラクシュミー」。(後に「サクラ―」へ変更)
省庁制が採用されると、東日本の信者を統括する「東信徒庁長官」を務めた。

 

「文化学園大学杉並高等学校」(東京都杉並区)を経て、「文化学園大学短期大学部」(東京都渋谷区)の生活造形学科を卒業。
その後はデパートで働き、やがて「日産火災海上保険 (現・損害保険ジャパン = 損保ジャパン)」に入社。ここでの同僚の中に石井 久子がいた。

かねてより自身の病弱体質に悩んでいた飯田は1984年のある日、健康のために麻原のヨーガ教室「鳳凰慶林館」に通いはじめる。これをきっかけに麻原の世界に引き込まれていき、同僚の石井 久子を勧誘。
その後、「オウム神仙の会」(後のオウム真理教)が発足すると、これに入会。やがて会社を退職し、出家した。教団内の管理番号は「00033」。

飯田は僅か1ヶ月で2億円にも及ぶ布施を集めたともいわれ、他の信者から金を吸い上げる能力は群を抜いていた。教団信者の中で最も金を集めた人物。
また、教団幹部の岡崎 一明と恋愛関係にあった。

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