千里眼事件 -1-

 

“超能力者か、それともペテン師か”

 

『千里眼事件』の概要

明治末期、透視や念写といった特殊な能力を持つと自称する女性らが現れた。
こうした中、東京帝国大学(現・東京大学)や京都帝国大学(現・京都大学)の学者らによる公開実験が行われたが、そこでその能力の真偽論争など一連の騒動が巻き起こった。

牧歌的な時代―、
当時の日本の世相を反映した事件であり、またオカルト要素が強くどこか不気味で、人間の深い闇を感じさせる悲劇の事件である。

 

【事件の主役】御船 千鶴子

(みふね ちづこ)


生誕

1886年(明治19年)7月17日
熊本県宇土郡松合村(現・宇城市不知火町)

漢方医の父を持つ裕福な家庭の二女として誕生。
生まれながらに進行性の難聴を抱えていたが、成人した頃には左耳の聴力はほとんど失われていた。
感受性豊かであり、それ故か非常に悲観的な性格であった。

 

超能力者として

千鶴子は22歳のとき、軍人の男と結婚。しかしある出来事が原因で離婚してしまう。

ある日、夫の財布から50円が無くなって騒動となったことがあった。
このとき千鶴子は、消えた50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたが、これにより姑は”50円泥棒”の疑いをかけられてしまう。姑はこれを苦に自殺未遂。

 

離婚により実家へ戻った千鶴子は、義兄(姉の夫)・清原 猛雄(きよはら たけお)に「お前は透視ができる人間だ」と言われたことで、修練を続けるようになる。
それから千鶴子は、自身が知り得ない事実を言い当てるなどして、世間の注目を集めていった。

その評判が高まっていた頃、千鶴子は三井財閥(旧・三井合名会社)の依頼を受け、福岡県大牟田市で透視を行ったというのが定説として語られている。
このときの透視目的とは炭鉱の発見であったが、千鶴子はその期待に応えて見事炭鉱を発見。その報酬として千鶴子には2万円(現在の価値で約2,000万円)が支払われたといわれている。

しかし―、
千鶴子が発見したとされる万田炭鉱はすでに、1888年に競争入札で三井財閥が落札している。その時点で千鶴子は1歳もしくは2歳である。
そもそもこの炭鉱は江戸時代から採掘が行われており、発見されたのは1400年代。つまり、この炭鉱を千鶴子が透視で発見したことを事実とするのは無理がある。

 

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事件の解説

明治42年(1909年)―、

その特殊な能力を見出した義兄・猛雄の手引きにより、千鶴子は人体を透視して病気を診断したり(体内透視)、手かざしによる治療を行うようになっていた。

当時の日本では、民間療法を行う民間医が多数存在しており、猛雄もそのひとりであった。それまで猛雄は自身の催眠術による心霊療法を行っていたが、やがて注目を集めるようになった千鶴子に”治療”を行わせるようになった。
つまり猛雄は金儲けのために千鶴子を利用していた。

 

この頃―、
世間的に大きな注目を浴びるようになっていた千鶴子は、「東京朝日新聞(現・朝日新聞 東日本)」に取り上げられる。
このとき千鶴子、23歳。

明治42年8月14日付の「東京朝日新聞」
日本で最初に千鶴子を取り上げた

京都帝国大学の前総長・木下 広次が千鶴子の治療を受けたと報じる

 

新聞報道の翌年となる明治43年2月19日、医学博士の今村 新吉が千鶴子のいる熊本へと赴いた。透視実験を行うためである。

今村 新吉:いまむら しんきち (1874年11月15日 – 1946年5月19日)
帝国京都大学の精神医学者。千鶴子の透視実験を最初に行った人物

千鶴子の元を訪ねた今村―、
このときの透視能力実験で
は高い的中率が認められたが、今村は実験結果に懐疑的。その理由は千鶴子の透視方法にあった―。

 

明治43年4月9日、今村は超心理学者の福来 友吉を引き連れて再び熊本へ。

福来 友吉 :ふくらい ともきち
心理学者、超心理学者。東京帝国大学の助教授なども務めた。念写を発見した人物とされる。千鶴子を売り出した人物としても有名

千鶴子の元へ訪ねた今村と福来は、2月に今村が単身行った時よりも確実性の高い方法を採った。
というのも千鶴子は立会人らに背を向け、透視対象を手に持って透視を行っていたからである。この「立会人に背を向けて透視を行う」というのが、千鶴子の透視スタイルであった。
一方、透視対象である文字の書かれたカードは厳封されているとはいえ、”それは透視実験として如何なものか”というのが今村の主張。そのため今回の実験では、それを封じようという試みであった。
ところが千鶴子がこれに異論を唱えたため、折衷案として「背を向けてもよいが、透視対象を手に取らない」という条件で行った。

すると透視は失敗。

次に、「名刺を茶筒に入れ、それに触れてもよい」という条件で行ってみると、千鶴子は名刺に書かれた文字を見事言い当てた。

茶筒に入った名刺の文字を透視する千鶴子

透視を成功させた名刺と茶筒の実験。この名刺を用意したのは、そこに同席していた猛雄であった。このとき透視実験が行われたのは猛雄の家。

一説には、このときの千鶴子の透視成功率は約80%であったといわれている。

清原(猛雄)邸の間取り図

 

明治43年4月25日、東京に戻った福来が学会で実験報告を行う。

「御船 千鶴子の透視能力は真実なり」

 

この発表に新聞各紙が一斉に飛びつき、千鶴子は一躍脚光を浴びることとなった。それと共に、「透視」ひいては「千里眼」の持ち主を名乗る者が次々と現れた。

これこそが、『千里眼事件』の幕開けである―。


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【千里眼】
:せんりがん
千里先ほどの遠隔地の光景を感知できる能力。またはそれを持つ人物のことを指す。
視覚を透過させる「透視」とはニュアンスが異なるが、これと同じものとして扱われる。つまり「透視」≒「千里眼」と考えて差し支えない。

ちなみに千里は約4,000km。これはおおよそ東京からラオスまでの距離に相当する。

 

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