千里眼事件 -2-

これは『千里眼事件』に関する記事の【パート2です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

千里眼事件 -1-


 

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事件の解説

東京実験

福来が学会発表を行った同年―、
明治43年(1910年) 9月14日、千鶴子は福来と共に東京にいた。透視の公開実験を行うためである。
この実験の立会人には当時を代表する権威ある学者、傍聴者には各新聞社の記者たちなどが集められ、それは過去に例を見ない大規模な透視実験であった。

この東京実験こそ、千鶴子の人生を大きく変え、現代にまで語られる出来事となる。

今村 新吉 (前列 左)、御船 千鶴子 (前列 中)、清原 猛雄 (後列 右)、福来 友吉 (前列 右)
大々的な透視実験を前に、緊張した面持ちの千鶴子。このときも猛雄はしっかりと千鶴子の傍にいた

 

この実験で採用されたのは鉛管を用いた透視。
これは平らに潰した鉛の筒の中に文字を書いた紙を入れ、その端をはんだ付けで接合。つまり
どうやっても中の紙を取り出すことのできない、厳封された透視対象を用いるという方法であった。

東京実験で使われた鉛管と文字の書かれた紙。「無受次」と書かれている。中央の大きな紙は答え合わせ用のものと思われる

このように、”牢固な鉛管の中を透視”という千鶴子にとっては厳しい条件の中、福来と今村を含めた学者14名の立ち合いの下で公開実験は行われた。
尚、この東京実験は物理学者・山川 健次郎の主導によるものであった。

山川 健次郎 (1854年9月9日 – 1931年6月26日)
東京帝国大学、九州帝国大学、京都帝国大学などの学長を歴任。貴族院の議員でもあった。物理学者や教育者、政治家など様々な顔を持つ


透視実験開始―、
山川は自身が予め用意した20個の鉛管の中から無作為に1つ選び、それを目の前の千鶴子に手渡した。

山川の手元の鉛管は整然と並べられ、それと対応するようにそれぞれの中の文字は別紙で管理されていた。そのため、山川自身は千鶴子に手渡した鉛管の中の文字は把握していた。

 

山川から鉛管を手渡された千鶴子は、透視を行うため別室へ。さらに千鶴子は別室の中に屏風を立て、その中で透視を行った。しかもその部屋には千鶴子ひとり、監視人が部屋に近寄ることすら許さなかった。
このように千鶴子の透視スタイルは、「背を向けて、透視対象を持つ」という従来のものから大きく飛躍していた。

【筆者による超解説

この別室は千鶴子側が事前に要求し、用意させていたもの。
そしてお分かりいただけるように、この東京実験は透視対象を開封するのが難しくなっている。(通常は糊で封印された封筒を使う)
この実験で千鶴子はまるで、その厳しい条件に合わせるかのように人の目を排除している。「自分ひとりの密室、そこに屏風を立て、部屋には監視人を近づかせない」。3重のセキュリティである。

尚、先の集合写真で確認できるが、このとき猛雄が同行している。
この猛雄こそ千鶴子の協力者であり、実験者側に対して千鶴子に有利な透視条件を要求するなど、超能力者・御船 千鶴子のために暗躍していたと筆者はみている。
また、この実験で監視人を千鶴子の部屋に近づかせなかったのは、猛雄自身がそこに忍び込むためであったと筆者は考える。

千鶴子は当初の透視スタイルからどんどんエスカレートさせており、この頃には「集中できないから」という理由を付けて立会人らの同室を固辞していた。
それだけ自身に有利な環境を要求するということは、実験条件の厳しさが増していったということ。つまりそれだけ学者らの疑念が強かったことを意味する。この東京実験はまさにそのピークにあった。

 

 

こうした状況で行われた千鶴子の透視実験―、
しばらくすると千鶴子は部屋から姿を現し、鉛管の中の紙に書かれているのは「盗 丸 射」の三文字であると回答。そして千鶴子は山川に鉛管を手渡す。

山川らが千鶴子から返却された鉛管をチェックするも、それにはこじ開けられたような形跡はなく、異変は認められなかった。その上で、千鶴子から返された鉛管が立会人すべての前で開封された。
するとそこに書かれていたのは―、

『盗 丸 射』

 

的中であった―。


パート3】へ。

 

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