千里眼事件 -3-

これは『千里眼事件』に関する記事の【パート3です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

千里眼事件 -1-

千里眼事件 -2-


 

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事件の解説

千鶴子の透視成功にその場は騒然となるが、それで終わりとはいかなかった。山川が待ったをかけたのだ。なぜなら彼の鉛管リストの中には、「盗 丸 射」が無かったからである。
では一体、”千鶴子が持っていた鉛管はどこから出てきたのか”、”実験開始時に山川が渡した鉛管はどこへ消えたのか”―、

これらについて山川らは、

“見本のひとつが紛れ込んでしまい、それが偶然にも千鶴子に渡ってしまった”

そう結論付けたのだった。
つまりこの日の実験は、実験者側の不手際により正確な結果を導き出せなかったということで幕を閉じた。

 

ところが―、

この日の晩、福来は千鶴子に鉛管すり替えの事実を打ち明けられることとなる。

 

千鶴子によれば―、
“すり替えに使った鉛管は、実験の前日に練習用として福来から渡されていたもので、千鶴子は実験時にこれをお守りとして持参していた。
そして実験開始、しかし山川から渡された鉛管の透視ができなかったので、懐に忍ばせていたお守りの鉛管を山川に差し出した”
ということであった。

【筆者による超解説】

こうして鉛管のすり替えを認めた千鶴子であったが、このとき千鶴子が強調したのは、あくまで練習用の鉛管の中身は知らなかったということ。言い換えるならば、この鉛管については透視できたということである。

『実験時に差し出された鉛管の透視はできなかったが、自前の鉛管は透視できた』

 

この一幕で忘れてはならないのは、千鶴子がすり替えに使った鉛管は、前日に福来から渡されていたもの。つまり、実験時に千鶴子が「盗 丸 射」と答えた時点で、福来は千鶴子のしたことを察していたはずである。

ではなぜその場で何も言わなかったのか―、
実験の晩に千鶴子から打ち明けられなければどうしていたのか―、
前日に千鶴子に渡していた鉛管は、本当に練習の目的であった
のか―、
そもそも透視に練習とは―、
実験内容を事前に教えることは透視実験の確実性を損なうのではないか―、

挙げればキリがない。

実験者側である福来は当日行われる実験内容を知っていた。故にその立場を利用して、このとき千鶴子に便宜を図った可能性が極めて高い。
猛雄は言うまでもないが、この東京実験では福来も千鶴子のイカサマに加担していた。いわばスパイである。

思い出していただきたい。
実験時、千鶴子から返却された鉛管を山川らがチェックするも、開封した形跡がなかったことを。これはすり替え用の鉛管の中身を、福来が予め千鶴子に教えていたことを証明している。

そしてもうひとつ、明治43年4月9日に福来が今村と行った千鶴子の透視実験も思い出していただきたい。

透視を成功させた名刺と茶筒の実験。この名刺を用意したのは、そこに同席していた猛雄であった。このとき透視実験が行われたのは猛雄の家

一説には、このときの千鶴子の透視成功率は約80%であったといわれている。

イカサマし放題で確実性のない実験内容であったにも拘らず、福来はその成功率だけを取り上げ、それを独断で学会発表している。
福来は千鶴子側の人間であり、自身の学者という立場を後ろ盾に、千鶴子が超能力者であることを証明しようとしていたのだ。

 

 

9月15日
前日のすり替え
の事実は福来によって山川に伝えられたが、これといった騒ぎは起きることなく2日目の実験が行われることとなった。

この日の実験は前日に比べごく少数の立会人の下で行われたほか、鉛管が使われることはなかった。つまり前日よりも”中身が確認しやすい条件”となっていたのである。
これは山川の、”千鶴子のやり慣れている方法がいいだろう”という配慮によるものであった。

結果として、千鶴子はこの日の透視には成功している。
また
9月17日に行われた実験でも成功。条件は2日目と同様であった。

 

3日間に及んだ実験の後、山川は新聞社の取材に対し以下のように語っている―、

「実験が完全でなくなったのは甚だ残念である。もしこれを悪意に解釈すれば大橋邸(公開実験会場)へあれ(練習用鉛管)を持ってくる前に開いて見たのであるまいかと思われるが、私は全然そんなことはあるまいと信じている。
私は以前から千鶴子の透覚力について種々の人からも話を聞いて、余程、信を置いているし、第一、かの婦人が見るから不正なことをしようとは思われぬ。 <中略> 私はこの点に関してほとんど疑っておらぬが、しかしそれは私が信ずるだけで、第三者に向かっては昨日の実験を完全なるものであるということは出来ぬ」

【私は信ずる】『東京朝日新聞』明治43年9月17日付 第五面より引用 ※( )内は筆者による補足

要するにこの山川の発言の意味するところは―、

「個人的には千鶴子のことを信用しているが、第三者に向けて当該の実験が完全であったということは言えない」

ということである。

物理学者という立場から、透視をはじめとした非科学的なものに対しては否定的な山川であったが、このときは当たり障りのない中立的な姿勢をみせていた。その意図は分からないが、千鶴子を肯定することで何らかの利益、または否定することで何らかの不利益があったものと思われる。
ところが、明らかなイカサマを見て見ぬふりをして非科学を肯定することは、物理学者としてのプライドが許さなかった。こうしたジレンマによって、どっちつかずの発言に至ったと筆者は考える。

 

この東京実験における鉛管のすり替えこそ、『千里眼事件』の核ともいえる出来事である。
現代における認識では、すり替えの発覚は実験の立会人である山川らの追求によるものというのが一般的。しかし留意すべきは、すり替えの事実はあくまで千鶴子本人が告白したということだ。恐らく良心の呵責に苛まれ続け、もはや耐えきれなかったのだろう。

 

【東京実験】敷衍と説述

明治43年9月14日から3日間行われた東京実験。ここまでその実験の様子をお伝えしたが、その上で多くの方が―、

「実験の条件が甘すぎないか」

そう感じているのではないだろうか。
それもそのはずで、このとき千鶴子が透視を行った際の状況を整理すると以下のとおり。

【立会人の目の届かない別室にてひとりきり】
通常、透視の真偽を見極める目的なのであれば、透視は立会人の目の前で行うべきである。
これはマジックに置き換えても同じことがいえる。例えばマジックの途中で一旦ステージ裏にはけるなんてことはあり得ない。そんなことは”裏で何かやってます”と言っているも同然。それを千鶴子はこのときやってのけている。そうなれば透視もクソもない。

 

【ボディーチェックなし】
1日目に千鶴子は鉛管のすり替えに成功している。福来に渡されていた練習用の鉛管を懐に忍ばせていたからである。これはつまり、ボディーチェックが行われていなかったことを裏付けている。

 

【1日目にすり替えが発覚したのにも拘わらず、2日目以降はより不正がしやすい条件に変更された】
これが最も不可解に映るだろう。ところがこれは、超能力者と学者の関係性を知れば合点のいくものとなる。というのも当時、こうした実験というのは、超能力者側が優位であったのだ。例えば実験前に超能力者が機嫌を損ねれば実験は行えない。実験中も同様、中止ともなり得る。
いわば、学者たちは実験をさせてもらう立場。故にこの東京実験においても、すり替えを追求してしまえば2日目以降の実験が中止となり兼ねないため、1日目のすり替えを不問としたのだろう。
こうしたパワーバランスから、当時の透視実験では学者らによる便宜供与が多くみられたのだ。

つまりこの東京実験でその条件が甘かったのは、学者たちの立場が弱かったから。
熊本にいた千鶴子が上京して公開実験したと聞くと、”学者側が超能力者・千鶴子を呼びつけて実験に協力させた”と考えがちだ。しかしこのとき千鶴子はまったく別の用事で東京を訪れており、”千鶴子は東京見物で機嫌がいいだろう”と考えた学者らが公開実験を打診した末に実現したものであった。
いうなれば東京実験は、ついでに行われた透視実験だったというわけである。


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