千里眼事件 -6-

これは『千里眼事件』に関する記事の【パート6です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

千里眼事件 -1-

千里眼事件 -2-

千里眼事件 -3-

千里眼事件 -4-

千里眼事件 -5-


 

事件の解説

博士は純粋な正義か、確信犯の悪か

新聞報道によって新たな超能力者を見つけた福来は、地元・香川の協力者を通じてその本人、長尾 郁子に接近。このとき福来は今村を誘い、自らの主導で郁子の透視実験に入った。

今村 (前列 右) と 福来 (中列 右)

明治43年11月12日―、
この日、郁子の最初の透視実験が行われたが、これが世間の評判に反する結果に終わる。的中しなかったのだ。
それもそのはずで、郁子の透視
は立会人の正面で行われていたのである。当然、この厳しい透視条件は福来の意図するところであった。

千鶴子が成しえなかった対面方式での透視実験も、郁子ならできると信じた福来。
その透視実験に成果を生み出せなかった福来であったが、尚も郁子の実験を続ける姿勢をみせ、次なる行動に。新たな実験を打ち出したのである。

その内容とは、漢字三文字が書かれた紙を同一条件で写真撮影し、これら未現像の写真乾板の1枚を郁子に透視させるというもの。未現像の乾板は郁子の元へ送り、それを自宅で透視してもらう。要するに遠隔での透視実験ということである。当然のことながらそこに立会人などはいるはずもなく、それは確実性の失われた実験であった。
(郁子は香川、福来は東京に居住であったと思われる)

この頃、福来はこうした遠隔の実験を積極的に取り入れていた。前出の千鶴子が行った19通の封筒の透視実験も同時期に行ったとみられる。

 

 

「写真乾板」
感光材料の一種。一般に知られるネガフィルム(上)はシート状であるが、写真乾板(下)はそれがガラスになったもの。画像内ではどちらも現像されている。

某月某日、福来から送られてきた未現像の乾板―、
これを透視した郁子は「哉天兆」と回答。

 

それは正解であった。

後に2枚の乾板が現像されると、郁子によって透視された方が黒くなっていたが、福来はこれを郁子の特殊な能力によってもたらされたものと解釈した。

郁子が透視した乾板はその大半が黒くなっている (左)
「哉天兆」の字は福来の妻によるもの。

【筆者による超解説】

郁子から返送された乾板を現像し、それが黒化していることに驚いた福来。そしてそれが郁子の超常的な力によるものであると結び付けた。
その乾板の黒化であるが、いま一度2枚の乾板を見ていただきたい。

<左> 郁子から返送された乾板 <右>福来が自宅で保管していた乾板

それぞれ赤で囲っているのは黒化した部分である。
これは「かぶり」と呼ばれる現象で、写真全体の色調が特定の色に偏った状態のこと。この時代でいえば黒になる。
かぶりは多くに起因するが、この時代で考えられることは、現像環境や技術の不足、または現像に用いる液剤等の品質によるもの。中でも可能性が高いのは物理的要因、つまり高温や摩擦、圧力などによって黒化したということだ。
それを裏付けるように、郁子の乾板は四角く黒化している。これは恐らく、重い物を置いたことによるものと思われる。何にせよ、輸送時に発生し得るさまざまなダメージを鑑みれば、往復で輸送された郁子の乾板が黒化することは何ら不思議ではない。
反対に、福来の乾板に黒化が少ないのは当然である、自宅で保管していたのだから。

つまり、福来がこうしたことを知らなかったがために、郁子の特殊な能力の存在を認めてしまったことが考えられる。
または知った上での確信犯であったか。そうなれば、これは無理矢理なこじつけであったといえる。

そもそもこの遠隔透視実験において、郁子が本当に「哉天兆」を言い当てたことは実証できない。それを証明する人間がおらず、その証拠もないからだ。

筆者は福来が虚偽の実験報告を行ったとみている。もはやこの実験が本当に行われたことすら疑わしい。

 

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発見

明治43年12月26日―、
郁子にまだ見ぬ能力の可能性を感じていた福来は、またも新たな実験を試みた。
それは自身が指定する文字や形を、未現像の乾板に焼き付けさせるというもの。いわゆる「念写」である。

 

念写実験開始―、
郁子は福来が紙に書いた「心」の文字を1分ほど凝視した後、両眼を閉じて念じた。これを学者2名立ち合いの下で現像すると、「心」という文字になりかけて流れたようなものが現れた。
この瞬間こそ、福来が念写を世界で最初に発見した瞬間であった。

この日を機に郁子は、その後に行われた実験で次々と念写を成功させていく―。

世界初の念写「心」 明治43年12月26日

「黒丸」を念写 明治43年12月27日 午前9時20分

「正方形」を念写 (念じた時間は2分15秒) 明治43年12月27日 午後

「十字」を念写 (念じた時間は2分51秒) 明治43年12月27日 午後

郁子は次々と念写を成功させていく

【筆者による超解説】

お伝えしたように、福来は郁子の透視実験を千鶴子とは異なる条件で行っている。最も違うのはやはり、最初の実験で立会人を郁子の正面に置いたこと。別室でひとり行っていた千鶴子とでは、透視の条件に雲泥の差がある。

ではなぜ福来は郁子の実験に千鶴子との差別化を図ったのか。考えられるのは―、

一つ目は学習。
それまでの千鶴子の実験では立会人の目の届かないところで透視をさせてきたが、それでは実験の信憑性が大きく損なわれる。恐らく福来は方々で批判されていたのだろう。そのため郁子の実験においては、立会人の正面で行わせた。つまり詐術の疑惑を払拭する狙いがあった。

二つ目は、福来が郁子を真なる超能力者としての可能性を見出していたこと。

三つ目は、郁子は千鶴子のように「人に見られると集中できない」などといって、隔離された環境を要求しなかったこと。
(先にお伝えしたように、学者の立場は超能力者よりも弱かった)

ここで着目していただきたいのは二つ目。福来が郁子に対して大きな期待を寄せていたということである。当初は千鶴子に劣る存在としてみていたが、遠隔の透視実験で手応えを得た福来は、郁子の実験に没入していくことになる。
福来が郁子に入れ込んだこのことこそ、「悲劇」を生んだと筆者は確信している。

 

先述のとおり、千鶴子は服毒自殺を遂げている。
思い出していただきたい、それはいつだったか。一連の出来事を整理すると、ひとつの仮説が浮かび上がる―、

[時系列でみる福来・郁子・千鶴子の動き]

明治43年 11月12日
郁子 最初の透視実験


(福来) 郁子を千鶴子に劣る存在としてみる

 

明治43年 11月17・18日
千鶴子 熊本実験


(福来) 郁子と千鶴子のどちらが優れているか決めかねている。この実験で判断することにする

 

千鶴子 福来へ手紙
差出日不明 (熊本実験後であると推察)


(福来) 熊本実験の結果を受け、すでに千鶴子に見切りをつけた。用はない

 

明治43年 12月26日~
郁子 継続的な念写実験を開始


(福来) 郁子こそが真なる超能力者であると固執

 

明治44年 1月19日
千鶴子 自殺

※筆者による推察です

 

千鶴子は自殺前、福来に長文の手紙を宛てており、その中で助けを乞うていた。

「東京へ逃げたい」

そう記しているが、これが”そこに置いてください”という遠回しのSOSだったことは違いない。つまり、福来への手紙こそが一縷の望みであった。
しかし千鶴子が自殺したことをみれば、それが受け入れられなかったということであろう。当然である、この頃には福来は郁子に夢中であったのだから。福来は千鶴子から郁子に鞍替えしたのだ。

尚、千鶴子の自殺前の手紙に福来からの返信があったのか、それを知る由もない。


パート7】へ。

 

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