城丸君事件 -6-

これは『城丸君事件』に関する記事の【パート6です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

城丸君事件 -1-

城丸君事件 -2-

城丸君事件 -3-

城丸君事件 -4-

城丸君事件 -5-


 

付記

本事件の顛末はここまでお伝えしたとおりであるが、一般にはあまり知られていない本事件に関する当時の情報がある。
ここではそれらを箇条書きにしてお伝えしたい。ぜひともそのすべてを鑑みた上で、この事件の真相を考えていただきたい。以下参考。

※本編で記述した情報も含んでいます

事件に関する情報

秀徳くん失踪日:1984年(昭和59年)1月10日

・秀徳くんの両親や長男も「ワタナベ」という姓の知り合い、親戚、友達に心当たりはなかった

・秀徳くんの自宅と加寿子が事件当時住んでいた「二楽荘」は、僅か100m程度しか離れていなかった

・加寿子と秀徳くんは顔見知りであった

・秀徳くんの父・隆さんは2つの会社の代表取締役を務め、家屋が建てられていた敷地は約120坪。また家屋は約50坪の鉄筋コンクリート2階建てであった
(120坪は正方形で例えると約20×20mの広さ)

・城丸家は銀行に少なくとも約6000万円の預貯金があった。車はポルシェ、BMW、モーガンといった高級車を計3台を所有していた

・秀徳くん失踪当時、加寿子には約800万円の借金があった

・秀徳くん失踪当日の朝、付近の空き地で遊んでいた小学3年生と小学5年生の2人が秀徳くんを目撃。2人は二楽荘方面へ歩いていく秀徳くんの姿を確認している。 このときの秀徳くんの服装は、フード付きのマウンテンパーカ(ネイビー)を着て、長靴を履いていたと証言 

・加寿子は秀徳くん失踪事件のあった同じ月の26日(木)、同じ豊平区内の別アパートに引っ越している。これとほぼ同時期に生活保護を申請している

加寿子は1983年に上野(東京)のショーパブ経営者と結婚。この男性との間に娘をひとりもうけたが、翌年に離婚。娘を連れて北海道に戻った。このとき加寿子はホステスとして勤めていたが、常連客から借りていた495万の借金を踏み倒すようにして北海道へ逃げ帰っていた
※この娘とは本事件時に一緒にいた子のこと

加寿子には、1983年12月10日まで勤めていた札幌のクラブに42万9442円の借金があった。ちなみにこの店への返済期限は1984年1月10日までであった

加寿子は自身が所属のクラブを経営するA東京本社に53万5,155円の借金、同池袋支店には28万円、また他にもB社に47万919円、C社に105万1600円、D社に50万円、E社3万3000円、さらには同僚のホステスに5万円の借金があり、まさに借金まみれであった。 
※借金の総額は約830万円。このうち650万円の支払期限が迫っていた。 
※当時、加寿子にはパトロンの存在があったことも確認されている。この人物は加寿子に借金の肩代わりを頼まれたが、これを拒否している

・事件の管轄であった豊平警察署は、秀徳くんの父親が会社社長であり資産家でもあったことから「身代金目的の誘拐」と考えていた。そのため城丸宅に逆探知機を設置し、犯人からのコンタクトに備えていた

・加寿子にとって寿美雄さんとの結婚は二度目の結婚であったが、寿美雄さんにとっては初婚であった。2人の出会いのきっかけはお見合い。その席で寿美雄さんが加寿子に一目惚れ。そのため寿美雄さんが一方的に求婚する形での結婚であった
※「農業の手伝いは一切しなくてもよい」という条件であった

・寿美雄さんの身内や親族は加寿子との結婚には強く反対していたが、寿美雄さんが押し切る形で結婚した
※それまで農業一筋であった男性と、長年夜の仕事をしていた派手好きの女性がうまくいくとは誰も思わなかった

・寿美雄さんには約2億円の高額な生命保険がかけられており、その受取人は加寿子であった

・加寿子は結婚時の約束どおり、農業の手伝いは一切行わず。それをいいことにパチンコ店に通い詰める毎日であった

・加寿子は娘を連れて札幌へ遊びに行き、そのまま一週間以上も自宅を空けることがあった
※ 札幌に愛人がいた可能性あり

・加寿子と寿美雄さんは家庭内別居状態。加寿子は1階、寿美雄さんは2階で生活。当然のことながら寝室は別

・火事で亡くなった寿美雄さんは生前、義理の兄に「加寿子に殺されるかもしれない」と相談。加寿子に対し恐怖心を抱いていた

・北海道地検が加寿子を「殺人罪」で起訴したときには、本事件に該当すると考えられる各罪状は公訴時効がすでに成立していた。
※「死体遺棄罪(3年)」「死体損壊罪(3年)」「未成年者略取罪(5年)」「過失致死罪(5年)」「傷害致死罪(7年)」
※「殺人罪」でしか加寿子を有罪にできない状況であった

・本事件の裁判において無罪判決となった加寿子であるが、起訴され無罪となるケースは極めて稀である
※参考までに―、2016年版の法務省による「犯罪白書」によると、裁判確定人員(起訴された人)は33万3755人、うち無罪は88人であった。つまり、起訴されると99.97%が有罪。裏を返せば、わずか0.03%しか無罪にならない


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事件の不可解な点

・城丸家の電話が鳴り、秀徳くんが電話で話しているのをみていた家族全員(父親、母親、長女、長男)が、秀徳くんの様子が不自然だったと証言している

・母親に尾行を頼まれた兄が秀徳くんの後を追った際、それに気付いた秀徳くんは、まるで追い付かれないようにと走り出した
※兄の証言による

・加寿子の秀徳くん殺害の動機、殺害方法が明確ではない

・秀徳くんの誘拐が身代金目的であったとすれば、なぜ加寿子は城丸宅に脅迫電話や身代金要求の電話をしなかったのか

・秀徳くん失踪の当日、夕方から夜にかけて大きな段ボール箱を運び出す加寿子の姿が目撃されている。その段ボール箱は親族の家に運ばれた。このとき加寿子が段ボール箱を親戚の家に搬出することができたのは、義理の姉が車で迎えに来てくれたからであった。
加寿子は自動車免許を所有していなかった

・運び出した段ボールは寿美雄さん宅の敷地内で箱ごと焼却処分している 
※近隣の住民は異様な臭いがしていたことを記憶している

・加寿子は男児用の学習机やライオンのベッドカバーを買っていた。また毎日仏壇の前で正座、手を合わせていた

・1984年1月26日、豊平警察署は加寿子宅にてルミノール検査を実施。しかし血痕の反応は確認できなかった 
※豊平警察署の発表による
※刃物等の使用はないものとみられる。絞殺の可能性が高い

・寿美雄さん宅から出火した際、深夜の出火であるにも拘わらず着飾っていた。化粧、セットされた髪、ロングブーツ。娘も外出着であった

・緊急事態であるにも拘わらず、加寿子は自宅から119番通報しなかった。さらにわざわざ300m離れた民家に助けを求めに行き、呼び鈴を押すも家主が出てくるまで悠長に待っていた
※なぜかすぐ隣の家は素通りしている

・火災時に運び出された荷物の中には寿美雄さんの物は一つもなく、自分と娘の物だけであった。
※しかもそれらは預金通帳や保険証書、高価な物、また焼失してしまうと実質的に困る衣類などであった
※出火原因は特定出来なかった

・豊平警察署は保険金目的の放火と考え、保険会社も保険金の支払いを拒否すると、加寿子は保険金の請求を断念

・1988年8月4日、豊平警察署が捜査の参考として加寿子をポリグラフ検査(ウソ発見器)にかけたところ、特定の質問において強い特異反応を示していた

 

指摘すべき点 (道警)

・初動捜査で警察犬を出動させていなかった 
(同様の事件では、警察犬の早期出動で誘拐場所が特定されている)

・重要参考人であった加寿子を徹底マークするべきではなかったのか 
(日本警察の”とりあえず様子見”の姿勢が露呈したのではないか)

事件当日、加寿子が「大きな段ボール箱」を親戚の家に搬出することができたのは、”そのとき偶然”義理の姉が車で迎えに来てくれたからであった。 となれば、義理の姉も共犯者であったという可能性はあったのではないか


以上である。

 

この事件を知る誰もが―、
加寿子が秀徳くん、そして夫を殺害したと確信している。当然、筆者も同様である。
被害者の方々の気持ちを考えると、工藤 加寿子に対する強い怒りを覚えるが、当時の科学技術や司法、刑法が及ばなかった時代背景がひとりの凶悪犯に味方したのが現実だ。

この事件を風化させないため、また同様の被害者が出ないために細やかでも寄与できるよう願いながら、この記事を締めくくりたい。

オラクルベリー・ズボンスキ(小野 天平)

 

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