薬剤師リンチ殺人事件 -1-

これはオウム真理教が起こした一連の事件に関する記事です。本記事では【第10のオウム事件】について言及しています。
本編単体でもお読みいただけますが「オウム事件シリーズ」となっているため、第1の事件から順にお読みいただいた方が事件関連の出来事や語句、人物など、より理解が深まります。

【第1のオウム事件】オウム真理教在家信者死亡事件

【第2のオウム事件】オウム真理教男性信者殺害事件

【第3のオウム事件】坂本堤弁護士一家殺害事件

【第7・8のオウム事件】オウム真理教男性信者逆さ吊り死亡事件 / 亀戸異臭事件

【第9のオウム事件】池田大作サリン襲撃未遂事件


 

“殺れば、助けてやる”

 

『薬剤師リンチ殺人事件』の概要

1994年(平成6年)1月30日、元オウム信者であった薬剤師の男性が信者の女性救出に失敗。これにより殺害された事件。
教団が起こした組織内、また対外的に起こしたあらゆる殺人事件の中で唯一、教祖・麻原 彰晃が殺害現場に立ち会った稀有な事件。

 

事件の概要

本事件の関係人物について

本事件の被害者となったのは、元出家信者であった薬剤師の男性Oさん(当時29歳)。
Oさんは明治薬科大学卒業後にオウム真理教に出家。その後教団が運営する「オウム真理教附属医院」の薬剤師を務めた。
Oさんはこの出家でYという信者と知り合い比較的仲良くしていたが、後にOさんはこのYに殺されることとなる。

 

加害者Y

親子2代で入信していた。Y自身は教団の音楽班に所属。
事件当時はOさん同様、すでに脱会済みであった。

Yと共に入信していたのは母親であったが、Yの母親は兼ねてよりパーキンソン病に悩まされていた。長年、栃木県内の病院で治療を続けていたが、その病状は思わしくなかった。
そんな中、「オウムの病院で治療すれば治る。だから入信しよう」と息子であるYや教団幹部の勧誘で入信。これに伴い、オウム真理教付属医院に転院した。
事前の説明を信じて入信・転院したYの母親であったが、病状は好転せず。これに不信感を抱いたYの母親の様子をみた教団が、Yの母親とOさんが肉体関係を持った(性欲の破戒をした)として、両者に第6サティアンへの移動を強いるとともに修行を命じた。事件発生の約1か月前、1993年12月頃のことである。

実際にOさんとYの母親が肉体関係を持っていたかは明らかではないが、恐らくは教団お得意の言いがかり・でっちあげである。
また教団の病院(病院とも呼べないものであるが)から、劣悪な環境の第6サティアンへ移されたYの母親。その病状が良くなるどころか悪化することは必至であった。

 

こうした教団の動きに懐疑心を抱いたOさんは脱会。それと同時に、Yの母親を救出することを決意。この頃すでにYは脱会しており、残されたのはYの母親のみという状況であった。
OさんはYの母親の救出に当たり、Yはもちろんその父親にも協力を依頼。こうして3人でYの母親の救出作戦が決行されることとなった。

 

作戦決行

1994年1月29日―、
Oさん、Y、Yの父親、そしてYの弟が加わった4人で救出作戦が決行。一行は栃木県宇都宮市から、Yの母親がいる第6サティアン(山梨県)まで車で向かった。

そして日付が変わった1月30日午前3時頃、4人は第6サティアンに到着。
ここでYの父親と弟は車内で待機し、OさんとYが催涙スプレーを携行して暗がりの中、第6サティアン内部へ潜入した。

2人とも元信者ということから施設の構造は把握していたため、難なくYの母親がいると思われる3階の医務室へ直行。予想どおりYの母親はそこにおり、母親を抱えたYと共にOさんは施設からの脱出を試みるが、その途中で発見されてしまう。
このときOさんらは催涙スプレーで抵抗するも、3人ともその場に取り押さえられ、ワゴン車に無理やり乗せられて連行された。その向かった先は第2サティアン。

第2サティアンには尊師の部屋がある―。


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