市川一家4人殺害事件 -2-

これは『市川一家4人殺害事件』に関する記事の【パート2です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1】からお読みください。

市川一家4人殺害事件 -1-


 

【事件の解説】関 光彦の生い立ち

機能不全家族と冷たい社会、歪んでいく人格

離婚と父・Gとの離縁によって経済的な後ろ盾を失ったYは1982年12月、夜逃げを決行。子ども2人(関とその弟)を連れ、東京都葛飾区立石のアパートに移り住んだ。

この夜逃げにより関は翌1993年1月、葛飾区立清和小学校に転校。ところがその先でいじめを受けるようになってしまう。
このいじめを招いたのは、「離婚による改姓」「困窮した家庭環境」であり、その学校生活は不遇以外のなにものでもなかった。というのも、このいじめがクラスメイトだけによるものではなかったからである。

あるとき担任教師が連絡網を作るため、クラス生徒全員の前で関に自宅の電話番号を聞いたことがあった。関がこれに「うちには電話がありません」と答えると、クラスメイトだけでなく担任教師までもが嘲笑。本来、味方であるはずの教師がいじめに加担していた。

 

両親の離婚、生活環境の著しい劣化、唯一の庇護者であった祖父・Gによる離縁、冷酷な社会(学校生活)。これらがもたらす「孤独」「劣等感」「人間不信」が、関のパーソナリティーを大きく歪ませた。
現にこのころから関は―、

“世の中は金がすべて。貧乏を笑うような人間からはいくら金を盗んでも構わない”

そう考えるようになり、万引きはおろか放課後に浅草へ繰り出して観光客を狙い、置き引き・スリ・追い剥ぎ・賽銭泥棒などの犯罪行為を繰り返すようになった。
とはいうものの、対外的には不良を装うことはなく、あくまで真面目で大人しい少年を演じた。そのため、例えばアパートの大家は関に対し、「礼儀正しくよくできた子」という印象を抱いていた。

関によれば、真面目を演じていた理由は、「不良と思われると損をするから」とのこと。仮にこれが本当であれば、相当に頭がキレた子どもであったといえる。しかし筆者としては、単純に体裁を気にしていただけであると考える。これは関の陰湿な性格に基づく。

 

中学時代 -逸脱の起点-

1985年4月、関は葛飾区立立石中学校に入学。
この時点で関の身体は大きく成長しており、その体格で周囲の生徒らを圧倒するようになっていた。これにより、それまでのようにいじめられるようなことはなくなり、よしんばそれに近いようなことがあったとしても、その体格が生む腕力をもってねじ伏せた。
この頃の関は、”腕力が自分を救う”という幻想を抱いており、暴力を肯定するようになっていた。

そのほか学校生活においては―、
少年野球チームに所属していた関は、恵まれたその体格を活かして活躍。エース投手で4番打者、チームの中心的存在。関にとって野球は、周囲の注目や期待を感じることのできる唯一のものであった。

スポーツに打ち込むこの頃までは、比較的健全な学校生活を送っていた関であったが、喧嘩が強かったことでやがて地域の不良少年たちに目を付けられるように。そのうちに取り込まれて不良の仲間入りをすると、兼ねてより行っていた非行はエスカレートしていった。
それまで対外的には”いい子”でいた関も、不良グループに加わったことで見た目どおりの不良となった。

このとき関が仲間入りの誘いに乗った理由は、人に必要とされることの喜びを感じたためであった。

 

不良となり、繰り返す非行に伴って、母・Yや弟への家庭内暴力にも及ぶようになった関。

このYへの反抗の大きな要因として―、
(Yが関に)「教育のため」と称して関が忌み嫌っていたTに会わせていたことが指摘されている。事実、関自身も軽蔑するTと自分が似てきていることを自覚しており、そのことに対して強い嫌悪感を抱いていた。

 

また、この頃にはYが自身の父・Gとの関係修復を果たし、これによってGからの経済的援助を受けるようになっていた。これにより暮らしは豊かになったものの、関はかつてGに離縁されたことを根に持ち続けていた。故に昔のような尊敬や憧れの念はとうに消え失せ、それどころか恨んでさえいた

そして―、
素行の悪さは悪化の一途を辿り、関は中学2年生の時点で同年齢の非行少女と性行為を経験。若干14歳ですでに、一片の自制心のないパーソナリティーが出来上がり、その様は自身の父親そのものであった。

この少女はシンナー中毒であり、ほかにも複数の少年との関係を持っていた。

 

中学3年生になると関は、それまでセックスフレンドであった同級生の少女との交際を始め、この少女と深夜徘徊、親の財布から金を抜き取るなどの問題行為を繰り返した。その一方で、高校受験のための学習塾に通いはじめるなど、その素行の悪さに相反する一面も覗かせた。
関は高校受験に際し、”野球が強くて大学進学率の悪くない高校”への進学を志望。この条件から日本大学第一高等学校、岩倉高等学校を受験するも、いずれも不合格という結果に終わった。

 

高校時代 -燻り-

1988年4月、関は堀越高等学校 普通科大学進学コースに入学(東京都中野区)。同校への入学は、Gの援助を得たことで実現した。
ここで関は、甲子園出場を目指すために硬式野球部への入部を考える。ところが
練習用グラウンドが校舎と同敷地内にはなく、都内の他市にあった。そのため、”通いきれない”という理由で硬式野球部は断念。
そこで関は妥協案として軟式野球部へ入部するも、次第に自分とは不釣り合いなその環境に嫌気が差し、高校生活そのものに対する意欲も消失。やがて学校へは行かずに繁華街を徘徊するようになった。

その結果、入学からおよそ1年後の1989年5月31日付で中退した。

 

高校中退後 -企みと片鱗-

不登校の末に高校を辞めた関は、その年の11月頃から祖父・Gの経営するうなぎ屋を手伝いはじめる。ところがその動機は、社会人としての自立を目指すためのそれではなく、Gが熱心に働く様をみて、”仕事はそんなに面白いものなのか”という興味本位にしか過ぎなかった。

いざはじめるとその働きぶりは、ひいき目にみても決して良いとはいえず、共に働く親類の評価は最悪。仕事はおろか、手伝いにすらなっていなかった。
また出勤時間を無視して夕方から出てくるほか、無断欠勤、「タレを扱う仕事は汚い」とGの仕事を侮蔑、店の備品を乱暴に扱う、そして店の売上金を盗むなどやりたい放題であった。

筆者の見解では、関がGの店を手伝うと言い出したのは、単なる遊ぶ金欲しさ。それは働いて賃金を得るということではなく、店に入り込んで売上金を盗むため。

 

時を同じくして―、
関が中学3年生のときに交際していた少女の両親が、母・Yの元へ殴り込みに来る。
その内容は、「うちの娘があなたの息子にたぶらかされて悪くなった」と関の素行の悪さを糾弾。これに弁解の術がなかったYは、この時点でまだ関係のあった2人を引き離す提案をし、了承を得る。

そしていざYと少女の両親が協力、2人を別れさせるための策を講じると、少女は父親に対して「彼とは真剣に付き合っている。彼はそんなに悪い人じゃない」と関を擁護。ところが少女は父親の説得により態度を一変させ、次第に関を遠ざけるようになった。
やがてこれを知った関は激怒。

その後、怒り狂った関が少女宅に押しかけたことで、両親は少女を東北の親戚宅に預けて避難させた。またそれを知った関は激昂。再び少女宅へ押しかけ、少女を連れ戻すよう迫るが、その手にはナイフが握られていた。

この一件で関は軽犯罪法違反に問われ、家庭裁判所に書類送検された。

関が後に語るところによると―、

「交際していた彼女(少女)はとても寛容で、喧嘩に明け暮れていた自分を見放さなかった。自分を受け入れてくれる彼女は本音をぶつけ合える相手だった

「自分たちは平和にやっていたのに、彼女の両親が因縁をつけてきた。彼女との仲を引き裂かれたせいで、自分は殺伐とした世界にまた戻された」

「ナイフを持って乗り込んだとき、彼女の親ということで大目にみたが、今にすればあのとき両親を殺しておけばよかった

とのことである。

 

恩を仇で返す

祖父Gの店で働きながら繰り返される売上金の着服―、
遂にはGにそれを追及される関であったが、これに逆ギレ。着服の疑いをかけられたことを根に持ち続け、それからおよそ1か月後となる1990年1月17日 22時頃にGの住宅に押し入り、就寝中であったGの顔面を激しく蹴る暴行を加えた。このとき、関の足の親指が眼球に突き刺さり、2か月入院の重体。Gは左目を失明した。

 

なんとも不遇続きのGであったが、そもそもGの店の環境は劣悪だった。というのもGは親類のほかに、暴走族メンバーや暴力団事務所に出入りする輩を雇っていた。これはGが付き合いのある商工会関係者や信用金庫職員から、「面倒を見てほしい」と頼まれたことに由来する。こうした環境は当然のことながら、関と彼らチンピラの癒着を手伝った。
関は店のチンピラから非行や喧嘩の方法を教わるほか、一緒に徘徊・飲酒・喫煙は当たり前。その生活はさらに荒廃していった。また、ときにはその彼らに対する暴力沙汰も起こすなど、相手を問わず暴力を振るった。

同年9月、関はバイクで交通事故を起こして肋骨8本を骨折。この怪我の治療のためにGの店の仕事を休んだことで、兼ねてよりの怠け癖が悪化。結果、関は無断欠勤のままGの店を辞めてしまう。

バイクは約80万円。母・Yが買い与えたものだった

 

そしてこの頃には以前にも増して、関のYや弟に対する家庭内暴力が深刻化。その改善策としてYは関に自室を与えるも、自宅内でプライベートな空間ができたことで素行が悪化。
Yは関を連れて警視庁の少年相談室を訪ねたこともあったが、それが功を奏すことはなかった。それどころか関が度々起こすトラブルによって、被害者宅を訪ねて治療費・示談金を支払うなど、その収拾に奔走した―。


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コラム 【祖父の店】

関 光彦の祖父は戦後、混沌の時世にうなぎの加工・販売業で身を起こした。
この祖父の経営する「株式会社 関昇商店」であるが、うなぎ店をチェーン展開するほど発展していた。しかし筆者が同社についてリサーチしたところ、ある資料に行き着いた。

官報である。

 

2013年(平成25年)11月10日発行 (フ)第11773号

掲載場所:号外(250号)/45ページ目
債務者・破産者:「株式会社 関昇商店」
代表:***
住所:千葉県市川市*****

【破産情報】
決定年月日時:平成25年11月6日午後5時
主文:債務者について破産手続きを開始する
破産管財人:弁護士 村西 大作
破産債権の届け出期間:平成25年12月4日まで
財産状況報告集会・一般調査・廃止意見聴取・計算報告の期日:平成26年2月6日午前10時30分

東京地方裁判所民事第20部

 

このことから関昇商店が破産していることが分かる。本事件の21年後ともなると、この破産はその影響ではないと考えられる。
破産した関昇商店であるが、現在においてもまだ店はある。恐らく破産後に個人事業もしくは新会社として事業を継続したのだろう。
そのため事業は縮小。かつては複数あった店舗も現在は「八幡店」の1店舗のみであるとみられる。

 

JR総武線「本八幡駅」からすぐの好立地

 

店頭に立つ方々。親族だろうか。

 

グルメサイトでも比較的高評価

 

自慢の国産うなぎが美味いらしい。足を運べる方はぜひとも利用してはいかがだろうか。

 

【店舗情報】
営業時間 10:00~19:00
定休日:水

〒272-0021
千葉県市川市八幡2丁目16-20

アクセス:
JR総武線「本八幡駅」下車 徒歩2分
本11「本八幡駅バス停」下車 徒歩1分
京葉道路「市川IC」から1.3km

TEL:
047-334-9814

※ここでの現在とは、2019年11月時点のことを指します

 

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